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 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
    二 山村の負担
      山村の小物成
 大野藩の天和二年(一六八二)「大野藩郷村高帳」(土井家文書 資7)や、鯖江藩の享保八年(一七二三)「今立郡卯郷帳」(斎藤勘右衛門家文書)、郡上藩の宝暦九年(一七五九)「穴馬二十一か村明細帳」(古瀬賀男家文書 資7)などには、藩領各村の村高・小物成が記されていて、山村の小物成(諸役)を知ることができる。山村特有の小物成としては大野藩や郡上藩の場合、漆役(現物納では役漆という)・蝋役・蝋臼役・曽木役(枌役)・紙役・鳥もち役・炭焼役・三杷(把)木役・栗役・木地山手等があった。鯖江藩には漆役・栗役・炭役・三杷木役・紙舟役・林役・木挽役・木地山手等があった。 写真105 池田郷村々明細帳

写真105 池田郷村々明細帳

 漆役は多くの村に課せられていた。漆木は山村にあっては漆液を採取することや、実が蝋の原料となるため最も商品価値があり、漆木があれば「掻漆少々御座候、実少御座候得共蝋不仕実ニ而売払申候」(「池田郷中村々明細帳」)などと、村明細帳に必ず記されるように重要視されていた。漆木の植栽された畑も多くあり、野生の漆木は各藩とも伐採を禁じていた。漆実・櫨実による蝋の生産には蝋役・蝋臼役が課せられた。
 曽木役は屋根葺材である榑板・小羽板の生産に課せられるもので、初めは現物納であったが、天和二年の「大野惣高諸役品々書上覚」には「銀二百拾四匁九分六厘 そき役 此くれ束弐百六拾八束七わ 壱束八分ツゝ」とあるように金納となっていた(松田五郎兵衛家文書 資7)。遠敷郡上根来村の慶長十七年(一六一二)の小物成請状にも「六千枚 ふきいた 壱ケ月ニ毎月上申候」(上根来区有文書 資9)とあるが、史料的には大野郡でもとくに山間部に当たる穴馬郷を中心とした地方に多くみられる。
 紙役は通常厚紙で四八枚(半紙は二〇枚)を一帖として納めさせた。これも初め現物納であったが、大野藩や郡上藩では「銀弐匁六分三毛 紙役 但厚紙五帖拾弐枚代、壱束ニ付五匁かへ」(古瀬賀男家文書 資7)と銀納となり、鯖江藩では文化七年の「西鯖江御領分御物成郷帳」(市橋六右衛門家文書)に「永百三十三文弐分 紙舟役」とみえるように銭納としている。もち役は鳥もち生産に課せられたものである。
 三杷木役は、元禄八年(一六九五)の「今立郡水海村鑑帳」(鵜甘神社原神主家文書)に「是者福居領ノ時より上納仕来り候得共、如何様ノ訳ニテ御座候も存不申候」などと書かれているように、元禄期にはもうほとんどの村ではどういう税かわけがわからなくなっていた。しかし「八田村取箇附覚」(『宮崎村誌』別巻)には「是ハ先年府中領主木村常陸守(介)殿御代、家壱軒壱ケ月ニ柴三把ツゝ被仰付、其後壱軒銀三分ツゝニ成り、又其後宰相様御代拾把七分ツゝニ直り柴五百四束、但此節家数四拾弐軒有之候、十二月ニ四拾弐軒懸ハ五百四束ニ成候」とあって、月ごとの現物納であった柴が、次第に金納化していったものであることがわかる。三杷木は「みわき」と読んだようである(松田五郎兵衛家文書 資7)。
 文政十二年(一八二九)の水海村村極では、最近、山剥で採取するはずの「三杷木」を、近くの山で「田こやし・柴等」に盗伐する者が多く、諸百姓の難儀となっているので、三杷木採取は往古からの仕来りどおり山剥だけでする、期間は春彼岸の入りより土用の入りまでとし、松林・栗林では採取しないことなどを再確認している(鵜甘神社原神主家文書)。これによって、三杷木は山剥で採取する柴や、田肥となる小木・潅木・立木などの小枝であることがわかる。
 栗役は縁起物として、また保存食としてもすぐれている栗を現物で徴収した名残りであろうか、早くから代米で徴収されていて「大野藩物成算用皆済帳」(大野市歴史民俗資料館文書 資7)には、「米六斗弐升五合 栗之代米 此栗壱石 但六割」などと記されている。
 木地山手は、木地師集落から成立した村や、当時木地師が入山している村に課せられたもので、木地という言葉から村成立の由来や木地師の活躍の様子もうかがうことができる。



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