目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
    二 山村の負担
      山稼ぎと駄賃稼ぎ
 山方は平野部と比べて農業の生産性が低いので、山稼ぎや駄賃稼ぎに力を入れて現金収入の増加を図った。若狭の池河内や上根来・中ノ畑・下根来など四か村では、それぞれ近江・若狭間の街道を利用し、近江針畑村で生産される板・杉皮などを小浜まで運ぶ駄賃稼ぎ(冬季は中断)と、鍛冶炭の生産に力を入れていた。とくに鍛冶炭生産はこの四か村の独壇場で、鍛冶炭一俵を蔵米一升一合二勺五才として換算し、年貢としても上納していた。ところが明和七年(一七七〇)同じ遠敷郡内に属する名田庄の木谷村が、小浜藩から三年間鍛冶炭生産の許可を得たことから競争が激しくなった。四か村は、「百姓ハ相互」だが炭焼は我々の第一の家職、木谷村にはほかの家職もあるはず、三年後はぜひ木谷村の炭焼を差し止めてほしいと嘆願書を出している(中の畑区有文書)。
 杪柴・薪の生産が盛んであったのは、日野川上流の南条郡田倉谷などの山間地帯である。山の谷川に「鉄砲」といわれる堰を築き、これを切り離し日野川本流まで川流しし、そこから白鬼女や安居などに陸揚げされて市場に出回った。日野川水運を利用した輸送経路、杪問屋など流通経路も徐々に確立していった。今立郡東鯖江村は毎年五〇〇〇束の杪を陸揚地である白鬼女で買い取っており、流通の活発であった様がよくうかがえる。
 南条郡大桐村は、比田浦との山論のさいの言上書の中で「灰をやき申候事ハ大切(桐)村之はしまりからのしやうまひ(商売)」(堀田五左衛門家文書 資6)と主張しているように、早くから灰を生産していた。これは天正十七年(一五八九)、この地方の領主赤座吉家が「はい山手」を徴収して大桐村に独占的営業を認めて以来、免許状が与えられて灰焼きが行われるようになったのである(前川三左衛門家保管文書 資6)。この灰は「こうのはい」(紺灰)と呼ばれているので、田肥ではなく染め物の触媒用であり、京都の紺屋に送ったと伝えられている。今立郡池田郷大本村でも杪柴は「市町江遠方故」売ることはできぬが、春は葛根・ぢうやく(どくだみ)を採取し「夏ハ紙之あく灰抔焼、五ケヘ持出し売申候」と触媒の灰を焼いて売っていた(田中作右衛門家文書)。
 郡上藩は越前領の年貢米や、大野郡で買い付けた御用米・御用荷物などを郡上表まで運ばせたが、その輸送人夫役を穴馬郷二一か村に課していた。これは村人にとっては、駄賃稼ぎともなったが、農業や山稼ぎの妨げとなることも多かった。そのうえ美濃道は悪路であったため重労働であり、しかも銭相場の変動によって、駄賃銀が一日の飯代にもならぬ場合もあるなど、きわめて苛酷な負担となっていた。なお、当地方の山稼ぎに、寺社の屋根葺材である桧皮や鳥もち用の黐皮の剥取りもあった。



目次へ  前ページへ  次ページへ