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 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
    二 山村の負担
      開発と見取米
 山村では条件の悪い山間の谷間、山麓、山の斜面、河原などで艱難辛苦のすえ用水路を敷設して水田が開かれた。また畑直しといって畑を改造して水田にすることも盛んに行われた。山村に多く見られる棚田の景観は近世に成立したものといえる。
写真104 棚田(大野市金山)

写真104 棚田(大野市金山)

 寛政十二年(一八〇〇)郡上藩が穴馬郷大谷・野尻・鷲・朝日の四か村に見取米を課したところ、これら四か村は穴馬郷世話役を通じて免除を若猪野代官所に嘆願したが却下されたので、再度以下のような嘆願書を提出した。
 穴馬郷は太閤検地のさい、他所の「百分の一」でよいといわれたのに、ぜひ「五拾分の一」にしてほしいと願い出て、村高が決定されたと伝えられている。証拠の水帳・免状があるわけではないが、山川・野間等まで残らず年貢地となっているはずである。だからどこを開田し畑直しをし「米穀作配仕候とも自由之所」のはず、新たに見取米を付けられるのは二重取りと思われる。そのうえ、畑免を田免に直されるだけと思っていたが、穴馬郷では畑免と田免の違いはなく参考にはならず、別の基準だといわれる。ぜひ見取米賦課は再考をお願いしたい(永瀬忠右衛門家文書)。これに対して若猪野代官所は、穴馬郷世話役に四か村を次のように説得せよと指示した。
 穴馬郷に特別に高い石盛をつけ賦課するものではない。従来は「殊更田法ニはづれ候田畑反別取扱故」、とても新規賦課のための参考にはなりえなかった。そこで、「山中之田方」であることや畑直しだけでなく、過半が「新開・切添」であることなどを勘案して決めた(永瀬忠右衛門家文書)。さらに実地に立毛を見分し歩刈も行い籾を取り算出した(表77・78)。

表77 若猪野代官所の見取米計算

表77  若猪野代官所の見取米計算
注) 歩当精米は5合摺.

表78 大野郡平野部の年貢米計算

表78  大野郡平野部の年貢米計算
 こうした手続きをふまえて見取米を課したのであり、平場(表78)と比べて特別容赦していることがわかるはずである。不作の時の処置を願うのならまだしも、どうして太閤時代のことを持ち出し反対するのか。太閤の時代、穴馬郷に現在のような多くの田畑・屋敷があったろうか。郡上表においても、国替入部以降大分繁華になっており、「手之届候所ハ少々ニ而茂新田、又は水懸り有之候所は畑直」しをするのは穴馬郷とて同じであろう。それを穴馬郷のみ往古のままの取扱いに願いたいとはどういうことか。「五穀之内之上品之米を作り取候田地を拵、十分一ニ茂届ざる御収納」を申し付けたとてなぜ反対するのか(永瀬忠右衛門家文書)。
 結局、大谷村は見取米のうち一俵二斗七升三合が三か年免除、野尻・影路村(野尻の枝村)も見取米のうち五俵二斗が三か年免除となった。
 このやりとりから、穴馬郷の水田開発が進められていく様子や、その成果を自分のものにするために執拗に粘る農民の姿がうかがえる。一方領主側としても強権だけでは農民を納得させられず、論理的に説得させねばならぬ事態となっていることがうかがえる。なお、この説得のため若猪野代官所があげた試算例(表77・78)は、当地方の新田の具体的生産高を示すものとして興味深い。
 このあと文化七年(一八一〇)、大谷・長野・角野・後野の四村は新田検地を受けた。同十一年穴馬郷世話役立会いのもと、大谷村は「畑直し・開田并発畑」はまず村役人に届け出て「村一統評議納得之上」行うこと、自己の持高内でも村役人に届け出て許可を得ること、村の差障りとなるところや川端は開発しないこと、用水路・農作道を勝手に付け替えないこと、畑直しの場合は相応の用水料を支払うことなどを内容とした村定を制定した(永瀬忠右衛門家文書)。これは大谷村で水田開発が相変らず活発に続けられていることを反映したものである。



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