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 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
    一 山村の構造
      焼畑をめぐる紛争
 寛永元年十一月、福井藩が敦賀郡阿曽・杉津・横浜・大比田の四か浦に対し、「しお木」の伐採により「今庄領之御山」が荒れたとして立入を禁止した時、四か浦は申状で山の荒れたのは南条郡二ツ屋・新道・大桐・山中四か村が材木を切り売りしていること、灰焼きをしていること、杪柴を売っていること、とくに「やきはた諸所ニあまた」していることにあるとして、立入禁止を解いてほしいと嘆願した(中山正彌家文書 資8)。
 池田郷新保村は西角間村から請山をし、そこで「なぎ畑」をし、また田肥の秣をとっていた。しかし元禄十四年太郎左衛門家来長助は無断で近くの「小木林」になぎ畑をし、その火が元で山火事となったので、新保村は詫状を出し、今後なぎ畑は指示された場所で届け出て行うこととした。また同じ池田郷定方・西角間・東角間三村の「さんばく」は、とかく紛争が絶えないところであったが、元文年間の鯖江藩の裁許で、山の口明け前には決して草刈はしないこと、また「切畑」もいっさい禁止することとされた。天保年間西角間・東角間の両村は、裁許に違反し切畑を行ったので、定方村が抗議すると、切畑でなく「草畑」(なぎ畑か)だと言い張るので藩へ訴え出た。藩では三村に対して、今後切畑はもちろん草畑も焼畑に該当するので慎むようにと説得した。しかしこの説得は効果がなく、その後も「小前の者共が夥しく切畑」を行い紛争の解決も容易なことではなかった(鵜甘神社原神主家文書)。
 近世文書には焼畑の語が比較的多くみられる。それは焼畑の行われるおもな場所が村の惣山や、何か村もの惣山が集中した広大な深山であったことにより、村内外で焼畑適地の占有や境界をめぐり、また焼畑による損害(山の荒廃、田肥不足・水不足、洪水  など)をめぐる紛争が多発していたからであろう。



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