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 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
    一 山村の構造
      焼畑
 元和三年(一六一七)四月、南条郡大桐村が、隣村の敦賀郡大比田浦との山論にさいし提出した訴状の中で、焼畑について以下のように述べている。「やまか」の百姓は粟・稗を「しきもツ」(食物)にするので「山はた」を作る、山畑を作って生活もなりたち「御公方之御馬之くツ」(貢租)も負担できる、山畑を作らねば在所もなりたたぬ、山畑を開くため「ひをつけ」ることは大桐村立ち始まって以来のことで、時節が来ると山に火をつけ山畑を作る(堀田五左衛門家文書 資6)。また別の史料では「御国中之山家之ものやきはた仕候」(同前)とあるように、焼畑は畑作中心の山村はもとより、水田の多い山村にとってもきわめて重要なものであった。
 最近まで焼畑が行われていた大野郡穴馬地方では、四月下旬から五月上旬にかけて山焼きを行い、稗・粟・黍・かもあし・小豆などを輪作するものを「春ナギ」、七月下旬から八月上旬にかけて山焼きを行い、蕎麦・カブラなどを栽培し、翌年から稗・粟などを輪作するものを「夏ナギ」または「菜ナギ」と呼んでいた。大体三年作って放棄し、また杉を植林して新しい焼畑に切り換えるが、稗・粟の反収は一石二斗ぐらいで、一家の一年分の食料を確保するためには最低五反から七反を必要としたという(『穴馬の民俗』)。山の斜面という立地条件、雑草の繁茂などから苛酷で多くの労働力を必要としたことは疑いない。作付期間やその後の利用などは地域により多少の違いはあるとしても、近世の焼畑もほぼ同じであったろう。
写真102 焼畑の造成(大野市打波)

写真102 焼畑の造成(大野市打波)

 焼畑は、史料中には「やきはた」「なぎ」「なぎ畑」「切畑」「山畑」と表されている。山畑は条件の悪い山間の常畑を指す場合と、焼畑を指す場合があり区別は難しい。なぎ・なぎ畑・切畑の語は大野・今立・南条三郡によくみられる。なぎ・なぎ畑と切畑は区別される場合もあり、瀬戸村と高倉・芋ケ平の紛争のさいの瀬戸村の訴状には、「切畑」は「大木原伐倒シ焼畑」にし、「なぎ畑」は「杪柴原を焼払新畑」にするとある(伊藤助左衛門家文書 資6)。池田郷定方・西角間・東角間三村の入会地で切畑について紛争となった時の定方村訴状には、切畑というのは「元来木の根・草の根を土とともに切り起こすもの」(鵜甘神社原神主家文書)とある。また明治二十年の今立郡東俣村の「焼畑取調表」(飯田廣助家文書)には「一村共有」の山林内の焼畑は「焼畑」、個人所有の山林内の焼畑は「切替畑」と区別して記載されている。



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