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 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
    一 山村の構造
      束刈制
 近世の村の耕地(田畑・屋敷)は、公的な土地台帳類では反別と石盛による石高で把握されている。しかし山村では日常、田は二〇束刈とか一五束刈というような表し方をしていた。これは中世以来の伝統で、面積によらずその一区画の収穫量を稲の量で表す方法である。これを束刈制と呼ぶ。稲刈のさいの稲束を一把、一二把を一束と呼び、これを単位としている。田植から施肥、稲刈などの農作業はもちろん、稲干場も、籾の貯蔵場もこれによって勘案されていた。一把や一束の籾の収穫量(米の収穫量も)も経験から割り出されており、収穫作業の過程で収穫量の見当がつくようになっていた。しかし貢租は石高制によっているので、次第に面積や石高との換算も行われるようになった。売券などには「御高壱石九斗本、但有坪ハ正しんぼ 弐百束刈 一式不残上田 五歩壱束刈之積り」と、田の売買には石高と刈りの両方を記しているものもある。換算は地域による違いが著しいが、標準的なところでは一石は六〇束刈、一反も六〇束刈である。天明三年穴馬郷川合村百姓甚七の母が、田一一枚(石高九升二合三勺)、畑・屋敷一二枚(石高五升九合五勺)を銀二四一匁で売った売券によると、最大の田は石高四升一合で一八束刈、最小の田は石高一合三勺で一束刈となっている(新井太郎佐家文書)。このように筆数の多いこと、一筆当たりの単位(区画)が小さいのも山村耕地の特色である。
写真101 川合村の田畑売渡証文

写真101 川合村の田畑売渡証文

 山村の水田は形状は小さくいびつで、しかも畦畔部やそれを支える土手部分が大きく、かつ棚田が多かった。そのうえ、用水は冷え水で、日照時間も少ないうえ、所によって極端な差があるという状況があったので、この束刈制は山村の田の生産力を表すには合理的であった。



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