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 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
    一 山村の構造
      山村の物産
 表76は明治九年(一八七六)に書き上げられた水海・美濃俣両村の物産表である。時期は下がるが、近世の両村の物産を具体的に知るうえで参考になる。まず稗の生産量が多く、稗が山村の主要産物であることをよく示している。水海村のような水田の多い大村でも、麦や稗・蕎麦・粟・黍・大豆・小豆などを含めればその生産高は米の生産量と拮抗している。美濃俣村では圧倒的に稗が多いが、これらは焼畑や常畑、または稗田と呼ばれる条件の悪い水田で生産されたものである。
表76 水海村・美濃俣村の物産

表76  水海村・美濃俣村の物産
                  注1 水海村の反別は川欠を引いた分.
                  注2 明治9年の「物産取調調書上帳」(鵜甘神社原神主
                     家文書)により作成.

 大野郡穴馬郷では土地売券に「稗五石取」などと稗で表されているものが多くみられ、稗や大豆・小豆などは「升物」といって米に代る価値のあるものであった。領主の貢租では、米は稗の五倍として計算したらしく、明暦二年(一六五六)の大野郡橋爪村年貢皆済状には「米四斗者 ひゑ弐石 但米壱石ニひゑ五石つゝ」(経岩次郎兵衛家文書)、また延宝元年(一六七三)の同郡横枕村年貢皆済状には「米四斗壱升五合六勺 稗之代 此稗弐石七升八合 但五升替」(野尻喜平治家文書)とある。延宝六年穴馬郷川合村が納入した貢租のうち、雑穀は毛稗(おもに焼畑で栽培)三石四斗四升三合六勺、粟二斗八升六勺、小豆二斗九合八勺、大豆五升五合二勺、籾五升九合八勺からなっていた(平野治右衛門家文書 資7)。これはそのまま、この村の当時の雑穀の生産の割合を示すものであった。しかし、深山の谷奥まで執念でもって水田を開発し、米の生産に取り組んでいるのも山村の特色の一つである。それは米が穀物の最高のもので、かつ生産性が高く、近世社会そのものが石高制という米中心の社会であったからである。しかし生産した米の自家消費はわずかで、貢租で納入してしまうか、または金納のため売り払うのが普通で、手元に残した雑穀が主食であった。これも端境期にはなくなり、貢租納入と自家食料購入・生活費確保のため、農業以外の農間稼ぎ・山稼ぎ・駄賃稼ぎなどに力を入れるのが一般の生活であった。苧外字の生産や養蚕は山村・平野の村を問わず行われているが、木炭・杪柴・薪・楮・漆などは山村の代表的な商品であった。



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