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 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
    一 山村の構造
      百姓地押の原因
 水海村が「百姓地押」を命じられた原因は、正徳四年(一七一四)から享保七年にかけて八幡宮神主原修理と村役人とが、宗門帳に記載する神主と神人身分の肩書、神主持分の年貢・家役の負担、引高の配分、神田の位置付けなどをめぐって深刻な紛争を続け、ついに幕府評定所の裁定となる事件があったからである。この裁定は神主を敗訴として遠島に処したが、村役人等百姓側に対しても、引高や年貢割方に問題もあったとして厳しい叱責が加えられた。
 この事件は、入封直後の鯖江藩にとってきわめてやっかいな問題であり、藩はその対応に苦慮せねばならなかった。地押はこの事件に対する鯖江藩の善後処理ということができる。検地条目には、太閤検地以来ひさしく「高・反別不分明」となっており、神主との紛争の原因もここにあるので「百姓地押」を申し付けるとある(鵜甘神社原神主家文書など)。



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