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 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
    一 山村の構造
      山村の耕地と検地
 今立郡池田郷水海村は山村としてはかなりの大村で、村高は「正保郷帳」では田方五一一石四斗七升、畑方一二三石二斗八升で、計六三四石七斗五升であった。天和三年(一六八三)には新田一七石八斗四合が打ち出され、「貞享国絵図」では村高六三四石七斗五升のほか、開発二〇石一升四合、計六五四石七斗六升四合となった。ところが「元禄郷帳  」では、水海村六四六石六斗九升四合と枝郷美濃俣村八石七升とに分けられている。享保九年鯖江藩は、水海村に「百姓地押」を命じた。鯖江藩からは竿目付二人が来て監督し、水海組からも二人の庄屋が立会人となり徹底して行われた。その条目は「田畑居屋敷山畑切畑焼畑河原地薮林空地」「社地・寺地」まで残らず検地すること、古法のとおり一歩は六尺三寸四方、一反は三〇〇歩、田畑の上中下はそのところの外字米を参考にして決めること、石盛の数値は古法どおりとすること、新田高一七石八斗四合にも竿入れし本田同様とすることなど、全一五条からなっていた(鵜甘神社原神主家文書)。この結果、五七石五斗六升四合の出目(改出)が打ち出され、村高は美濃俣村も合わせて最終的には七一二石三斗二升八合となった。
写真100 水海村

写真100 水海村

 この地押に対し水海村では村の耕地の特色をあげ改出分の除外を嘆願した。そのおもなものを藩の回答とともにあげてみよう。ここでの争点は山村耕地に共通の特色といえるものである。
(1)山畑・焼畑は前々から「切替畑」で三年から五年作って放棄し荒すので、高外の定納  山年貢のなかに含まれているはずだから除外してほしい  。
(答)いままで高外の定納山年貢のなかにあり、しかも三年から五年ぐらいの作付というが  、どこでも作付には必ず年貢はある。「今年毛付之分反  畝相改書上」げを行い指示  を待つように。
(2)山田では水口ごとの一枚は冷水をためておくので「立毛そたち不申」、その分は引い   てほしい。
(答)田畑とも「立毛付候場所」の検地を除外した例はない。上中下の斗代で査定する。
(3)山田は山際・畦下が陰となり、また冷水が出るので「立毛そたち不申」、その分は引い  てほしい。
(答)山陰ばかりで日の当たらぬ山際・畦下一、二尺程度は認めるが、他はいっさい認め   ない。
(4)川端にある田畑は出水のたびに「痛」むので、この分は引いてほしい。
(答)田畑ともに「公儀御検地」にそのような例はない。
(5)「山方ニ而あせ多ク御座候ニ付」、畦の分は引いてほしい。
(答)これは「畦大小ニより見合」せて引くことになっている。
(6)下々田畑の斗代について配慮してほしい。
(答)太閤検地の例に従う。ただし竿入終了後問い合わせよ。
 焼畑は二町七反四畝二歩も打ち出され、反当たり二升の「焼畑年貢」が五斗四升八合課されるようになった。焼畑年貢は池田郷ではほかに例がない。享保十年の「水海村焼畑地押帳」(鵜甘神社原神主家文書)によれば焼畑は全部で一七九筆、一筆の最大面積一反二畝歩、最小二歩からなり、その徹底ぶりはみせしめともいうべきものであった。また名請人は六〇人で、名請面積は最大二反四畝二〇歩、最小は二歩となっていて持高の多い者はやはり焼畑を多く名請けしていた。この水田中心の大村でも焼畑に大きく依存していたことがわかる。
 改出高五七石五斗六升四合については、慣例に従って「無諸役」とされている。この「百姓地押」は藩の強制であったが、水海村の自発的内検という形式をとり、すべての費用は水海村が負担し、村はそれを高割で徴収したのであった(鵜甘神社原神主家文書)。



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