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 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
    一 山村の構造
      引高と貢租
 南条郡瀬戸村は日野川の最上流田倉谷の一村で、南は高倉峠(九六四メートル)を越えれば美濃徳山村に、北は田倉坂・杣木俣を経て池田郷に通ずる。天保九年(一八三八)の「明細書上一村限帳」(伊藤助左衛門家文書)には日野川とその支流の杉谷川が「当村田畑之中を通」るので、「水損勝」で、「農業之間ニ男者薪杪を刈、女者苧外字等稼仕候」と記されている。村高は「正保郷帳」では田方一三五石四斗六升六合、畑方一九四石三斗五升五合、計三二九石八斗二升一合であった。しかし宝永五年(一七〇八)幕府の検地によって、田方一四四石三斗七升、畑方屋敷社地三五石五合、計一七九石三斗七升五合となり、畑方が激減した。享保十三年(一七二八)には新田の検地を受け、新山田五石七斗七升六合、新山畑八石五升八合、計一三石八斗三升四合が打ち出された。さらに延享二年(一七四五)には見取場三町六反六畝二〇歩が設定された。
 表75はこの村の引高と貢租をまとめたもので、耕地の不安定な山村の一面をよく示している。元禄十四年(一七〇一)には引高は実に一七七石八斗三升三合(村高の五四パーセント)に及び、その内訳は水損一〇一石余、川欠四一石余、石砂入一二石余などであり、畑が壊滅的な打撃を受けていた。表75には常時引高とされる社地分一斗一升二合、高倉・芋ケ平分一九石八斗二升一合(宝永六年以降は一四石五斗六升八合)も含まれているが、引高の理由はほとんど川欠・石砂入・水損・旱損であった。なかには享保九年の「猪鹿喰皆無引」一五石余といった山村特有のものや、天明五年(一七八五)の「一村病難」(天明四年、住民四八八人のうち病死一二五人)で作付不能となり二〇石余引高となったものもある。引高になれば当然貢租賦課の対象外となるはずであるが、瀬戸村は山村に多い皆金納であるので、米価の変動などもあり、貢租は必ずしも引高に対応しているわけではないことがうかがわれる。

表75 瀬戸村の引高と貢租

表75  瀬戸村の引高と貢租
    注1 永1,000文は金1両を示す.
    注2 伊藤助左衛門家文書により作成.

 瀬戸村地籍の奥山には近江君ケ畑から木地師が入山し、木地山手を瀬戸村を通じて納入する枝郷高倉・芋ケ平が形成されていた。瀬戸村は、引高の原因となった水害が高倉・芋ケ平の木地生産(樹木伐採・残木放置)による山川の荒廃にあると主張し、独立村になることを目指した高倉・芋ケ平と激しく対立した。高倉・芋ケ平が木地生産をやめると、今度は杪柴などの山稼ぎや焼畑をめぐる対立が始まった(伊藤助左衛門家文書)。



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