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 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
    一 山村の構造
      畠・畑・山畑
 遠敷郡上根来村は遠敷谷の最奥部(峠を越えれば近江針畑村)の山村である。村高は「正保郷帳」では田方三二石余、畑方二八石余、合計六〇石余、「元禄郷帳」では七九石余、「天保郷帳」では八六石余となっている。しかし土地台帳類、繰り返された山論や年貢免状によれば、この村は早くから上根来(段村)と中ノ畑の両村に分離していた。
 表72・73は、天正十六年(一五八八)の太閤検地に基づく上根来・中ノ畑両村の名寄帳により作成したものである。畑作地が畠・畑・山畑に区分され、また一部の畠・畑・山畑が大豆高で表されているなど、畑作中心の山村の特色がよく出ている。畠・畑・山畑は立地条件や集約化の程度による当時の慣行的呼称であろう。畠(ハタケ)は潅漑用水が供給されれば水田となるものである。畑(ハタ)は山の斜面にある常畑で、大豆畑や茶木畑の名もみえる。山畑(ヤマハタ)は集落より遠く離れた奥山に開かれたものである。これらの畑作地のおもな作物には大豆のほか、名寄帳には記載されていないが、主食用の麦・稗・粟などの雑穀があり、山畑では漆・桑・楮なども栽培されていた。畠・畑・山畑はいずれも石盛は同じで、等級もほとんど石盛三斗の「下々」や二斗の「下々ノ下」となっている。大豆高の石盛も米による石盛と同様であるが、年貢は大豆で納入することになっていた。慶長五年(一六〇〇)の上根来村(段・中ノ畑)の年貢算用状によれば、村高は六〇石五斗八升六合、十二月現在納入済みの物成は三六石六斗一升六合、うち二〇石五斗は金納、二石五斗五升五合は米、一三石五斗六升一合は大豆の現物納であった。このような金納と現物納の組合せはこのあとも基本的には変らずに続いている。

表72 天正16年(1588)上根来村の耕地構成

表72  天正16年(1588)上根来村の耕地構成

表73 天正16年(1588)中ノ畑村の耕地構成

表73  天正16年(1588)中ノ畑村の耕地構成
  注) 天正16年の「上根来村名寄帳」(上根来区有文
     書)により作成・

  注) 天正16年の「上根来之内中畑村名寄帳」(中ノ畑
     区有文書)により作成.


 上根来(段)村はこのあと寛永十五年(一六三八)と、山畑のみではあるが寛保元年(一七四一)の二回検地を受けている。表74は寛永十五年の検地に基づく元文四年(一七三九)の名寄帳と、寛保元年の開畑改帳をもとに作成したものである。村高は天正の名寄帳より一五石増加し、この増加分は外高と呼ばれている。酉改開畑は寛保元年の山畑検地により打ち出されたものである。惣取米(貢租総額)は慶応三年(一八六七)の免状によれば四二石一斗四升二合、うち五石六斗三升が大豆となっている。
 中ノ畑村は上根来村より遅れて慶安元年(一六四八)に「畑方田ニ成分」の検地を受けた。その検地帳によると、畑方一町四畝四歩のうち五反一畝二二歩(五石二斗六升八合)が水田になり、村高は天正の名寄帳より四石一斗六升二合増加した。この増加
表74 寛保元年(1741)上根来村の耕地構成

表74  寛保元年(1741)上根来村の耕地構成
  注1 居屋敷は畠に含まれている.山畑の反別は記入な
    し.
  注2 元文4年の「名寄帳上根来」・寛保元年「開畑御改名
    寄帳上根来区有文書」により作成.

分も外高と呼ばれている。寛保元年には上根来村と同じく山畑の検地を受け酉改開畑として三石六斗五合が打ち出された。寛政七年(一七九五)の免状によると、村高は本高二五石七斗五升五合と外高四石一斗六升二合の計二九石九斗一升七合で、ほかに酉改開畑として三石六斗五合がある。惣取米は二四石二斗二升八合、うち四石五升は大豆となっている。
 このように両村の耕地は拡大しその集約化が進行していったが、その様子は本高のほかに外高・酉改開畑というかたちで村高が増加していくこと、畠や畑の水田化にともなう田の増加、畠と畑の区分がなくなっていくこと、山畑の検地などによく表れている。



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