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 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
    五 日々の生活
      家と家族
 写真99は越前和紙の産地であった今立郡岩本村などの弘化二年(一八四五)の村絵図の一部である。酒造や紙漉業などで裕福な家も多く、瓦葺で門構えのある家も交じっている。平均的な農村とはいえないが、一戸一戸についてかなり正確に記載されており、母屋に直角に付属する角屋や蔵・小屋なども読み取れる。家の多くは茅や稲藁で屋根を葺いた小さなクズヤであり、窓も少なく何軒もの家が狭い空間に密集して立並んでいる様子など、江戸時代の農村の様子がよくうかがえる。中に入ると玄関と屋内作業場を兼ねた土間があり、続いて囲炉裏などのあるオエと、その奥に一部屋あるくらいの、小規模な間取の家が大多数であったようである。
写真99 岩本村(「五箇村粟田部村絵図」)

写真99 岩本村(「五箇村粟田部村絵図」)

 ここで家屋の規模について、享保五年の坂井郡高塚村および元文元年(一七三六)の安沢村についてみてみよう(表67・68)。高塚村は金津宿の隣の、後に山を控えた、安沢村は九頭竜川下流右岸の畑地の多い村で、両村とも大庄屋を勤めた農民も居住している。村況はやや異なる点もあり、家屋の規模も少々異なるところもあるが、両村の状況から、平野部農村の家屋の概況を知ることができる。一部の例外を除き、所持高に応じて家屋の規模も大きくなっており、角屋・土蔵・小屋などをも所持するようになる。しかし、高塚村では最大の家でも、三間に六間で一八坪の母屋、二間半に二間半で六坪余の角屋、二間に三間半で七坪の土蔵、二間に二間半で五坪の小屋、合せて三六坪ぐらいである。安沢村の場合でも、三間に四間半で一三坪半の母屋、二間に二間半で五坪の角屋、二間に三間で六坪の蔵、合わせて二四坪半が最高であった。最小は高塚村では縦横一間半で二坪余、安沢村では縦横七尺で約一坪半であり、二間に三間から三間半で、六坪から七坪ぐらいの家が両村には多く、これくらいの規模が平均的な家といえよう。

表67 高塚村の家数・家族数

表67  高塚村の家数・家族数
  注1 (  )内は軒数.
  注2 「御預地高塚村高持雑家人馬改帳」(佐藤禮三家文書)により作成.



表68 安沢村の家数・家族数

表68  安沢村の家数・家族数
  注1 (  )内は軒数.
  注2 「坂井郡安沢村高附人家諸色改帳」(矢尾眞雄家文書)により作成.

 次に両村の家族数についてみてみよう。所持高が増えるに従って家族員数が増える傾向がみられるのは両村とも同じである。家族数は、高塚村では一人から六人、安沢村では一人から八人のあいだであり、家族形態は様々であるが、二世代の夫婦が揃っている例は少なく、高塚村では一戸、安沢村で四戸である。両村ともに全戸数の半数近くを占めるのは夫婦のみか、夫婦と少数の子供のいる家であり、子供の数は安沢村で五、六人という例もあるが、多くは一人から三人ぐらいであった。奉公人については、高塚村・安沢村ともに三〇石以上の家には、下男・下女かそれぞれ一人ないし二人おり、これら地主層は所持高のうちかなりの部分を手作りしていたものと思われる。
 次に、水田地帯の農村における商人・職人について、享保十九年の坂井郡野中組一八か村についてみると、酒造二人・室屋五人・油請売一人・大工三人で合わせて一一人となっている(小島武郎家文書)。また、同郡の山麓・山間部からなる前谷組二一か村の元禄八年の状況についてみると、酒造一人・馬喰七人で合わせて八人と(土豊孝屋家文書)、いずれも少数で、他はすべて農業に従事している。
 ところで、このように商人・職人が少なく、農間余業があまりみられない水田地帯の農村では、余剰人口を他所へ放出することになる。享保二十一年の野中組(この時期には一九か村で一万一五一七石)についてみてみると、高持百姓七一五軒、雑家二〇一軒、渡守七軒、乞食一七軒と寺五か寺となっている。人数は男一九〇四人、女二〇〇四人、合計三九〇八人で、一戸当たりの平均家族員数は約四人である。このほかに他所へ五八一人が出ており、その内訳は養子として出た者一九五人、近辺の村々へ奉公に出ている者二七〇人、江戸へ出稼ぎに行っている者一〇九人などである。奉公や江戸稼ぎの者の合計は野中組の人数の約一割であった。このほか組内で下男・下女として働く者が三九〇人おり、組内の人数の約二割が奉公人となっていた(表69)。

表69 野中組の戸口・馬数

表069  野中組の戸口・馬数
                    注) 享保21年の「坂井郡野中村組村々人家御改惣寄帳」
                       (小島武郎家文書)により作成.



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