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 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
    五 日々の生活
      農繁期と農閑期
 農作業のなかでも稲作はとくに多くの労力を必要とした。二月になって雪がなくなると、百姓は野に出て田の整地を始める。作業は田を掘り起こす「荒起」から始まり、掘り起こした土を砕く「田掻」、砕いた土をもう一度すき起こす「代犁」と続く。一方で、苗の成育をよくするため、種籾をしばらく水に漬けておく「種漬」や苗代作り、種蒔きが並行して行われ、四月、五月の田植で一段落する。田植後は稲株の間の土を起こす「中打」、草取り、施肥が何度か行われ、ようやく九月の稲刈となる。その後は、稲干し・稲こきのあと稲穂に残った籾を取る「やたかつ」、莚干し、籾をする「臼摺」が行われる。また、年内の年貢皆済に向けて米の選別や俵詰めなどの作業も行われる。こうした作業が早稲・中稲・晩稲と時期をずらして間断なく続き、その合間に畑作りや、山地であれば山仕事が加わる。雪が降り、農作業から解放される十一月頃から一、二月にかけては「冬励」と称した屋内での仕事があり、男は翌年の農作業に備えて縄・莚・俵・草鞋などを編み、女は布を織ったり外字糸を紡いだりしていた。
 表70は平野部およびそれに準ずる山沿いの三か村について、江戸時代中期の村況を示したものである。いずれも幕府領の村明細帳より抽出したもので、記載内容にはやや精粗があり比較しにくい面もあるが、秣や薪をどのように調達し、耕作にはどのような肥料を用い、農閑期にはどのような作業を行い、年貢をどのように納めていたかなど、当時の農村の状況を具体的に伝えてくれる。

表70 上関村・片屋村・森川村の村況

表70  上関村・片屋村・森川村の村況
注) 上関村は寛延3年の「村指出明細帳」(上関区有文書),片屋村は宝暦10年の「越前国丹生郡片屋村明細指出帳」,
    森川村は宝暦10年の「越前国大野郡森川村差出明細帳」(勝山市教育委員会保管文書)により作成.

 こうしたなかで、盆や正月の前後は比較的のんびりできる時期であり、寺院や家ごとに行われる法要なども多く、なかには京都の東西両本願寺や伊勢などへ参詣する者、温泉へ湯治に行く者などもいた。表71は坂井郡野中組の一九か村についてのものである(小島武郎家文書)。記載内容の大半は組内の者が北は細呂木、南は板取の関を越えて国外へ出た時の関所手形を求めた書状の記録である。したがって、関所手形を必要とする女性の移動しかわからないが、一〇か村余りの村について、元禄六年から同十二年冬までの記録であり、この史料からは、七月の盆前後にはかなりの人たちが、本願寺や伊勢に参詣していることや、加賀の山中まで湯治に行く者がいたことがわかる。

表71 野中組村々百姓の京都・伊勢参詣と湯治

表71  野中組村々百姓の京都・伊勢参詣と湯治
注) 「万留帳」(小島武郎家文書)により作成.
 



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