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 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
    五 日々の生活
      諸藩の法令
 江戸時代、幕府領には代官、各藩領には郡奉行が置かれ、そのもとには農民の中から任じられた大庄屋、または組頭と呼ばれる人たちがいて農民支配を行った(小浜藩にはsに相当する郷組という組織はあったが大庄屋は置かれなかった)。大庄屋は一〇か村から四〇か村の村々を監督し、領内農民への法令の伝達や、訴状の取次ぎ、争論の調停、犯罪の防止などを行っていた。また村内には庄屋・長百姓・百姓代(福井藩では百姓代は置かれなかった)などと呼ばれた村役人がおり、村民の生活全般にわたって監督するとともに、年貢の完納に責任をもった。このほか、幕府は将軍の代替りなどの時には全国に巡見使を派遣して地方の実状を監察し、藩主などもしばしば領内を巡視している。
 幕府や諸藩では様々な法規を作り農民に厳守させた。百姓は「死なぬ様に生ぬ様に」(「昌平夜話」)というのが幕府創立期の将軍はじめ大名たちの支配方針であり、年貢を完納することが農民の最大の勤めであった。忠実で公儀よりの法度をよく守り、ことに幕府厳禁のキリシタンを信ずるようなことなく、農業に精を出し、日々倹約を行い、家内円満で親類縁者や友百姓とも仲良くして、所帯をのばしていくような農民が領主たちにとって最も望ましいものであった。
 町や街道沿いの村など、人の往来の多い所には高札場が設けられ、そこには幕府の高札や、諸藩独自の高札が掲げてあり、これらを通じて法令の徹底が図られた。寛文九年(一六六九)の福井城下大橋付近および府中・金津・今庄の四か所の高札場には六枚の幕府高札が掲げられていた。伝馬など宿法に関するもの、毒薬・にせ金売買の禁令、キリシタン禁制、寛文九年の「公儀より被仰出御法度之旨不可相背事」にはじまる一一か条や、天和二年(一六八二)の「忠孝をはけまし、夫婦兄弟諸親類にむつましく、召使のものに至るまて憐愍をくハ(加)ふへし、若不忠不孝の者あらは可為重罪事」「万事おこ(奢)りいたすへからす、屋作衣服飲食等におよふまて倹約を可相守事」など農民や町人の日頃の心掛けを説いた七か条などである(「御用諸式目  」松平文庫 資3)。
 貞享四年(一六八七)に福井藩が定めた「御領分在々御条目」には、「公儀より被仰出御制札之条々相背へからす」に始まり、耕作に精を出すこと、年貢を皆済すること、五人組や縁者間での相互扶助、公事訴訟や喧嘩・口論の禁止、田畑永代売買や質物に関する規定、衣類・食物などのぜいたく禁止など、三一か条にわたって農民の生活に関する詳細な規定が記されている(「御用諸式目  」松平文庫 資3)。
 小浜藩では、寛永十一年(一六三四)にすでに「国中郷組相立候条々」(荒木新輔家文書 資9)が制定されている。このなかでも、徒党を組むことやキリシタンの禁制とともに、年貢を完納すること、郷組・庄屋・五人組で、走(欠落)百姓がでないよう気を付けること、走百姓がでた場合には郷・村・五人組の連帯責任で田畑を荒らさないようにし、年貢を完納することなどを義務付けている。
 また、各地に残る五人組帳前書には、幕府領・藩領の違いにより内容も異なり、時代の変化とともに内容に変更もあるが、数か条から一〇〇か条以上にわたる詳細なものもある。これらは、正月や盆の村寄合などで庄屋等によって読み聞かされ、百姓一人一人から請印をとることもあった。



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