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 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
     四 大用水をめぐって
      用水をめぐる争論
 越前の平野部では、水が得にくく、排水もしにくい村も多く、用水争論が頻発した。争論の原因は、堰や取水口に関するもの、分木・分石・胴木や番水など水の配分に関するもの、普請人足や普請の諸経費に関するもの、排水に関するもの、用水掛りの橋・簗・河戸・水車や木や作物に関するもの、新田開発に関するものなど様々であり、これらのなかには、番水や普請の経費をめぐる地主と小百姓の争論もあった。
 争論が起り、当事者同士で解決できない時は領主の裁断を仰ぐことになる。幕府領では代官、福井藩では用水奉行、その他の諸藩では郡奉行などが担当して解決に当たる。しかし、そのさいできるだけ近辺の大庄屋・庄屋などの有力農民を仲裁人として、内済すなわち当事者同士の話合いによる解決が勧められる。両者の対立が激しく、どうしても内済できない時には裁断にゆだねることになる。
 幕府領や複数の藩領にまたがる争論で、国元で解決できぬ場合には江戸の幕府評定所で裁許を受けることになり、これを江戸出訴(公訴)といった。しかし江戸出訴となれば多くの経費もかかるし、農民間にしこりを残すことも多く、幕府としては極力裁許という方法は避けようとしている。したがって、公訴の手続を済ませたあとに内済になる場合、評定所で取調中に内済を勧告され、国元へ帰って内済を行った場合なども多く、最終的に評定所で裁断が下るということは少なかった。また、たとえ裁断を下した場合でも、その後双方が裁断に従い和解する証文を提出させている。
 越前の用水争論のうち、幕府評定所で裁許を下された代表的なものを表66に示した。このうちとくにおおがかりなものをみてみよう。

表66 江戸出訴した用水争論

表66  江戸出訴した用水争論
(1)鳴鹿大堰争論 寛延四年(一七五一)より宝暦五年(一七五五)にかけて、九頭竜川の本流と裏川の間の中洲である吉田郡五領ケ島の五か村と、裏川から取水する新江・高椋・十郷・磯部の各用水組合の村々一一八か村(以後鳴鹿用水組合と総称)との争論である(表中の11)。
 この争論は寛延四年八月十八日の夜、福井藩五領ケ島の者たち七〇人ぐらいが大堰を壊したことに端を発する。そこで、鳴鹿用水組合の村々は、これらの村々を支配していた東長田・下兵庫・中番の幕府三代官所と丸岡藩に五領ケ島の非法を訴え、適正な処置を願う嘆願書を提出し争論となった。五領ケ島の者たちの主張は、鳴鹿大堰はこれまで、用水を必要としない秋から春にかけては堰を切り放して水を流してきた。ところが当年はこれがなく、例年のように裏川の浅瀬を渡って九頭竜川右岸の浄法寺山へ柴刈に行くことができないので堰を切り明けたというものであった。
 これに対して、鳴鹿用水組合の主張は、鳴鹿大堰は用水がいらない時期も堰を切り明けない定堰であり、堰の石一つも触れることはできないならわしである。領主たちより毎年藤一〇〇〇貫、杭一〇〇〇本分の米を支給されているが、これは、秋から春にかけての出水で傷んだ箇所を修理するためのものである。堰の下手は深い淵になっており、少し手を加えても大きな損傷となり簡単には修繕ができないというものであった。
 近辺の庄屋や三代官による調停工作も成功せず、宝暦三年四月、双方の代表が幕府評定所で対決することとなった。数か月かけて慎重に双方からの聴取がなされ、代表たちはいったん国元へ帰され、その後二度にわたって検使による詳細な現地調査が行われた。その後かなりの期間が経過して、宝暦五年二月二日に裁断が下された。
 その内容は、毎年秋八月から春四月までの用水不用の期間、大堰一三八間のうち、南側二四間を切り放つというものである。鳴鹿用水組合にとってはやや不本意な結果となったが、一応双方の主張のあいだをとったかたちとなっている。九頭竜川の河川利用や、大堰下に取水口をもつ河合春近用水や、福井城下の上水でもあった芝原用水などの事情も考慮したものであった。
(2)用水路の下流での排水をめぐる争論 これは数が多く表中の3、6、14、16、18などがこれに当たる。
 坂井郡大味・荒井村などは、九頭竜川・兵庫川などが氾濫すると、田地が冠水し、なかなか水が吐けない低湿地であり、田地境の畔や道などが、兵庫川からの洪水  を防ぐ堤防の役割を果たしていた。したがって、こうした畔や道が新たにできるとか、盛土して高くなれば、上手の悪水は吐けず、これを低くすれば下手に悪水が多く流れ込むといった事情があり、下兵庫・大味・荒井村などのあいだで争論が絶えなかった。
 同郡の上番・中番・下番・河間・宮前村なども、悪水の処置に苦しんだ村々であり、互いに争論を繰り返しながら、これまで用水・悪水が田越えに流れ込んでいたり、用水路・排水路が不分明であったりしたものが次第に改善されていった。
 また、川崎・石丸村にとっては悪水川である兵庫川も、楽円・油屋村にとっては用水として利用されており、楽円・油屋村がつくっている堰が一年中そのままにしておく定堰か、用水不用の時には取り払う堰かをめぐっても争論が起っている。
(3)新田開発にともなう争論 越前では大規模な新田開発はなかったが、山地や荒地などを切り開く小規模な開墾、従来の畑を田にする「畑田成」などが行われた。限られた水量であったため、旧来の田地への水掛りが悪くなり、争論となることもしばしばあった。
 丹生郡上糸生・下糸生両村と七郷用水組合一三か村の争論は、上糸生・下糸生村の新田開発をめぐる争論で、新田は溜池をつくって養うという裁許が下されている。家久村と和田川用水一四か村組合との争論も、新田への取水をめぐるものであった。
(4)堤防工事に起因する争論 越前の大河は霞堤と称する築堤方法がとられており、堤防がすべてつながっておらず所々で切れており、大水のさいには水量を緩めるように調節されていた。また、要所要所には刎出といった堤防が河の中につくられ水流の調節を行っていた。
 したがって、これまで堤防のなかったところに堤防を築いて川を締め切ったり、新たな刎出などをつくれば対岸に大きな被害をもたらすことになる。表中15の争論は、五つ連なって築かれている刎出と、大野藩普請の堤防との間が洪水  で切れ込み、そばを流れている堀兼用水に被害を与えたので、用水組合では用水の縁に堤防を築き洪水を防ごうとしたが、真名川対岸の佐開村から、新しい刎出をつくったと訴えがあり争論となった。越前における当時の護岸工事のあり方に起因する争論といえよう。
(5)分水方法をめぐる争論 用水が二つ、三つに分れる所には、河底に胴木を伏せ、これによって分水量を調節することが行われた。胴木の伏せ方や高さをめぐる争論も多く、表中の8・12などはこうしたものである。8の争論は横市村等が用水の堰を留めたことに始まり、享保元年に裁許がなされ、分水口に伏せ置く胴木の寸法が定められた。その後五〇余年が経過し、胴木の表面が腐り低くなったため伏替えがなされた。12の争論はこの伏替えをめぐって、水懸りの悪くなった横市村等が訴えたものである。



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