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 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
     四 大用水をめぐって
      用水維持と諸負担
 用水には、「公儀御普請所」と称し幕府や諸藩が経費を負担する重要なものから、組合の村々で維持しているもの、一か村または個人で維持しているもの(「自普請所」)など様々のものがあった。
 十郷用水の村々についてみると、毎年行われる大きな普請としては、鳴鹿大堰の築立普請、用水取水口である裏川入口の江浚え、神明取水口の江浚えや修理、横落堤の切壊し、築立普請などがあった。そのほかそれぞれの村で行う江浚えや岸の柳刈などもあった。
 鳴鹿大堰の築立には、ここから取水する村々を治める福井藩・丸岡藩・幕府領福井藩預役所ならびに旗本本多大膳家・同荻原家から、毎年藤一〇〇〇貫と杭一〇〇〇本に相当する代米一六石二斗八升五合が援助された。これで山竹田村から藤・杭を買い取って工事を行った。堰に用いる蛇篭と呼ばれる竹篭や堰に掛ける莚、この普請のための人足や舟などは三郷(高椋郷・磯部郷・十郷)などの百姓たちが負担することになっていた。
 丸岡藩領と旗本本多大膳領では、村ごとに一年間の用水普請人足数が定まっており(各村の合計は人足一六八人、内篭組人足七人、篭組人足一人当たり篭二〇)、それ以上の人足が必要な時には、この数に比例して各村に配分した。福井藩領や幕府領の村では、用水の掛り高に応じて人足やその他の諸経費を負担していた。
 裏川入口の江浚えも三郷から人足が寄せられ、三郷それぞれに帳場割がされて作業を行ったが、これも仮堰などをつくって行われ、大量の人足を必要とする作業であった。裏川から新江用水・高椋用水・十郷用水などを引き取る堰や取水口の修理なども、それぞれの用水掛りの村々の負担であり、十郷用水の場合は取水口の名をとって神明役ともいわれた。毎年行われた横落堤の築立て、切壊しの工事にも、十郷用水組合の村々から人足が出された。
 通常の普請のほかに、鳴鹿大堰では、堰の下手の川の中央部が深くえぐられるので、これを蛇篭などで埋めて川底をならす大工事が、享保十二年、寛保二年(一七四二)・三年、天保十三年(一八四二)に行われている。こうした大規模な工事に当たっては、幕府領福井藩預所・福井藩・丸岡藩・旗本本多家・同荻原家から援助がなされている。ただし、天保十三年の場合などは、福井藩が割当て分の七、八割を五か年に分けて支払うというので、不足・遅延分は福井藩領の農民が代りに負担せねばならなくなるため、同藩領内の農民たちから繰り返し嘆願書が出され、半額は年内に支給するというところまで藩側と交渉している。
 福井藩領では、組合の村だけでは負担し切れない大普請には、「四郡割」普請という方法もとられている。これは、福井藩の上領・中領・下領・川北領の四領から加勢人足を出すというもので、文政九年(一八二六)から同十一年の河合春近用水の普請には、人足の見積高六万四七九九人のうち三割を引き、残り四万五三五九人三分を組合村々と四郡とで均分し、四郡の分は三か年で勤めている(鈴木公宏家文書)。
 普請に当たっては、組合村々からの人足が徴用されたが、入札等により請け負わせることもあり、大きな普請や、時代が下って工法などが変化してくると、請負普請に依存する傾向が強くなった(「鳴鹿大堰所普請人足帳」土肥孫左衛門家文書)。



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