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 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
     四 大用水をめぐって
      越前の大用水
 越前では、山間部や海岸沿いで溜池や清水を用水に利用するところもあったが、平野部ことに坂井郡・吉田郡・足羽郡などの、高低差の少ない広い平野には、用水路・排水路が網の目のように張りめぐらされていた。
 用水の多くは、九頭竜川・足羽川・日野川の三大河川から取水しており、江戸時代末期の状況を伝える「九頭竜川之図」「足羽川之図」「日野川之図」(松平文庫)には、九頭竜川に二〇、足羽川に一七、日野川に三三の堰が記されている。これらのうちには一か村または数か村の用水もあったが、十数か村から数十か村にわたって利用された大用水もある。ことに、鳴鹿大堰でせき止められた九頭竜川の水は裏川と呼ばれた分流に入り、新江口・楽間口・大島口・神明口、さらにいくつかの水閘によって坂井郡の高椋郷・磯部郷・十郷の一一八か村、六万六〇〇〇石余の地を潤した。その内訳は、享保二年(一七一七)の「鳴鹿用水方万留万歳帳」(土肥孫左衛門家文書)によると、福井藩領一七か村、幕府領福井藩預所三九か村、丸岡藩領五七か村、旗本本多大膳領五か村であった。
 記録のうえで室町時代までさかのぼれる十郷用水や高椋用水のような例はきわめて少ない。新江用水や吉田郡の北野新田・栃原五か村開田用水、南条郡の関ケ鼻新田用水など、明らかに江戸時代に起源をもつものもあるが、大部分は不明で、以前からあった用水路が、江戸時代になって整備されたものも多かったと思われる。
 福井藩は、慶長期(一五九六〜一六一五)に用排水のための大規模な土木工事をいくつか行っているが、芝原用水・府中町用水などは福井藩家老本多富正の事績と伝えられている。また同藩では、水はけの悪い坂井郡浄土寺村から山岸村までの間に五七〇〇間にわたる大堤を築いて悪水を集め、山岸村の水門の開閉によって片川の排水を順調に行わせるなどの大工事も行った。
 近世の用水制度は江戸初期以来徐々に整備されていったと思われるが、以前から用水の管理を行ってきた大連家のような有力農民に引続き用水の管理を命じたり、普請人足などを以前のとおり組合の村々に命じたり、旱損時に一定の日時を限って旱損の激しい村に配水する切水をこれまでの前例に従って命じるなど(大連彦兵衛家文書、西大井区有文書)、従来の諸慣行を尊重しながらも新しい用水秩序を確立していったようである。



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