目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
     三 越前の割地
      特異な持高
 ところで越前には、他の村と違って特異な持高の村がいくつか見つかっている。一つは村高を高持百姓のあいだで均等に割っている村であり、もう一つは村高の何分の一かの石高を基準にし、その倍数で高を所持する村である。前者の例としては吉田郡志比境村や坂井郡白方村があげられる。後者の例としては吉田郡中角村、坂井郡鳴鹿山鹿村・細呂木村・一本田中村などがある。
 例えば、志比境村では、村高をその時々の高持百姓の数で均等に分けており、高持百姓数が元禄九年(一六九六)の一八戸から享保四年(一七一九)の二六戸に増加するにともない、百姓一人当たりの所持高は一二石五斗八升一合一勺から八石七斗一升に減少している(表63)。
 福井藩白方村の場合、慶長三年の「越前国下之村白方村御検地帳」(白方区有文書 資3)では、表64のように百姓の所持高は様々であったが、天明二年には三〇戸の高持百姓が全員一一石五斗八升六合三勺の均等な高を所持している。明和元年(一七六四)の「三番いなば割帳」(白方区有文書)でも田畑が三〇に均分されていたようであり、こうした所持高均等割の慣行は天明二年より以前にさかのぼれそうである。こうした所持高を均分する慣行の背景には、一戸分の所持地の内容を等しくするような操作、すなわち様々な等級の土地を組み合わせて一戸分とする方法が行われたであろうことが推測される。
 また、このような均等な所持高がその後どうなったかについては、白方村の明治元年「辰年御高家数男女人馬御改帳」(白方区有文書)からうかがうことができる。これによると、表65のように一戸分の所持高は一石一斗五升二合から二八石九斗六升二合のあいだで様々に分かれている。しかし、子細にみるとこれらの所持高はほとんど、村高の六〇〇分の一、天明二年の均等な所持高一一石五斗八升六合三勺の二〇分の一に相当する五斗七升九合の倍数になっている。すなわち、均等な所持高が細分化され、譲渡・売買や一方では集積が繰り返されてこのような所持高になったものと思われる。こうした点から見ると割地の一類型と考えられる。
表63 志比境村の百姓所持高

表63 志比境村の百姓所持高
注 村高は226石4斗6升である・


表64 白方村有姓所持高

表64 白方村有姓所持高



表65 明治元年(1868)白方村の百姓所持高

表065 明治元年(1868)白方村の百姓所持高
注) 0.579石は当村高347石5斗9升の1/600..
 



目次へ  前ページへ  次ページへ