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 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
     三 越前の割地
      村ごとの割地
 その後も、越前の多くの村では、村内の話合いによって自主的に割地が行われているが、山間部や沿岸部には少なく、九頭竜川・足羽川・日野川やその他の河川の流域などの水害多発地に多くみられる。藩領でみれば、福井藩領のほか幕府領や丸岡藩領などに多い。明治十三年(一八八〇)の「越前七郡地租改正再調手続書」(「石川県布令書」)は、割地慣行のある村として、坂井郡二九村、吉田郡一九村、足羽郡一七村、今立郡一〇村、丹生郡五村、南条郡三村とするが、江戸時代中後期の記録からは、これよりはるかに多くの村々で割地が行われたことが知られる。
 多くの場合割地は冬から春にかけての農閑期に行われ、村によっては次の割地を何年後と決めたり、一定の期限を決め定期的に行っていた所もある。宝暦十三年(一七六三)の坂井郡鷲塚村では今後三〇年ごとに行うことを取り決め、天保七年(一八三六)の同郡下番村では一〇年後に再度行うことを決めている。
 また、内検地のさいの長さの単位も、鯨尺が用いられたり曲尺が用いられたり村によって様々であった。一間の長さも曲尺の六尺や六尺三寸のほか、文政五年(一八二二)の吉田郡大和田村・同村枝村堂島村では鯨尺の六尺二寸、宝暦十三年の鷲塚村では鯨尺の六尺六寸などと様々であった。なかには、嘉永元年(一八四八)の坂井郡宮谷村のように、田は田棹、畑は畑棹、屋敷は屋敷棹という異なる間棹が用いられており、田棹は鯨尺の六尺五寸、畑棹は鯨尺の七尺、屋敷棹は鯨尺の六尺三寸であった。
 福井藩では、寛文期以降には藩領全域の割地は行わないものの、村落の衰微のもとは「田畑山林不陸より事起り候」という考えは変えておらず、天明四年(一七八四)、御救下行米を許す場合には翌年割地を行うことを義務付けている。同七年には、割地を行うさいに、まず田畑の上中下・反別・字・斗代や山林を記した帳面を提出すること、郡奉行所・代官所が割地実施に立ち会うこと、割地実施後の小前帳を提出することなどを義務付けている(「命令之部」松平文庫)。



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