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 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
     三 越前の割地
      割地の実施方法
 この割地の実施方法についての藩からの指示は、寛文九年の一一か条の触(土蔵市右
衛門家文書 資7)からうかがえる。
(1)「割様ハ惣をろくにいたしくち取に可仕事」と記されており、「ろく」(陸)すなわち公平に各種の土 
  地を交ぜ合わせて、内容がほぼ同じになるような一まとまりの土地をいくつか作り、鬮引でそのう
  ちのどれをとるかを決める。
(2)割地を行うに当たっては内検地が行われるが、その時に余分や不足の田畑が生じた時は、一村
  等分に割り、藩に届ける。
(3)諸役免除・屋敷役免除の土地だと言う者がいても、証拠がない場合はすべて村並の扱いとする
  。
割地に関する規定は以上三点であったが、これを実際に行う場合には、村ごとに詳細な規定を定めており、細かい点ではそれぞれ違いもあった。
 こうした村内規約としては今立郡岩本村や吉田郡幾久村のものが現存している(岩本区有文書 資6、小沢元滋家文書 資3)。岩本村のものは七か条の比較的簡単なものであるが、幾久村のものは一五か条にわたりこまごまと取決めがなされている。後者を要約すれば、
(1)本村分四〇〇石と新村分四五一石余を新村・本村の免違いがないように一緒にして割地を行う
  。また、高五〇石ずつを一まとめにし、田は上・中・下田を不公平にならないように組み合わせる。
  また五〇石分の土地は鬮引で持主を決める。
(2)各人の屋敷は所持高五〇石につき二〇〇歩、屋敷の裏には一間幅の溝を掘る。ただし、屋敷の
  過不足は麻畑のうちで清算する。
(3)畑に植えてある桑はそのまま植えておき、その畑を得た者は代金を桑主に支払う。支払わぬ場
  合は桑主が桑をこぎとる。
(4)柳は刈り取らず残しておき、雑木はこれまでの持主が急ぎ刈り取ること。
(5)茶畑は同類の畑、または、中畑などと交換し、元の茶畑主に戻す。
(6)麦田は、麦を蒔いた者から、一反につき一日の人足を出させる。ただし、半反は半日とし、三畝 
  以下は用捨する。
(7)野道は道幅を定め、杭を打ち直す。川岸などで大きく損じ、一人では修繕できない場合は、村中
  で修繕する。ただし、田地の川流れ分は地主の損失とする。
(8)各人の境の畦は、今年は双方が立ち会って塗る。来年からは水上の方だけ、畦の片側だけを塗
  る。
(9)用水へ土を少しも入れないこと。江幅が狭くなった時は、双方が立ち会って元どおりにする。
(10)畑畔に木を植えたり、屋敷境で他の屋敷が日蔭になるようなところに木を植えることを禁ずる。
(11)高五〇石分の土地一六を鬮引にし、残りの高五一石一斗二升九合については、土地を定めそ
   れぞれに分け取る。
(12)割地の雑用の拠出が遅れる者がいれば、その分だけ質物ででも徴収する。
(13)新しい道や用水江を作ったり、江掘を行うさいには高持はみな人足に出ること。もし出られない
   時は、一日なら銀一匁二分、半日なら六分を支払う。
(14)屋敷境の垣の高さは五尺に定め、それ以上は切る。
(15)このほか取り決めることがあれば、村人全員の話合いで決める。
さて、こうした取決めを作った後、内検地が行われ、様々な等級の田畑を組み合わせて一鬮分ずつの田畑が定められ、高持百姓による鬮引が行われてそれぞれの所持地が定まる。
 一鬮分の石高は村によって異なるが、三〇石・五〇石などとまとめられ、わずかな高しか所持しない百姓は何人かで一鬮を引き、それをまた何人かで配分することになる。逆に、多くの高を所持するものは一人で二鬮、三鬮を引くこともあった。なお、「棹取」とも呼ばれ田畑一枚ずつを測量する人は公正でなければならず、直接利害関係をもたない隣村の百姓を頼むことも多かった。
 南条郡の上広瀬村・下広瀬村には寛文九年の「酉年両広瀬野畠小分帳」「酉年両広瀬屋敷小分帳」や同十一年の「両広瀬村田地鬮取帳」があり(馬場善十郎家文書)、これによれば、田畑とも上・中・下の割合がほぼ等しくなるように配慮してそれぞれ四五鬮と、四七鬮に組んでいる。屋敷は各人まちまちであり、畑地などで調整しながらこれまでの屋敷を所持したと思われる。
 今立郡別司村には寛文九年の「別司村惣田内検之割帳」(内田五兵衛家文書)があり、五〇か所の土地をそれぞれ六等分し、これをそれぞれ組み合わせて(鬮引によってか)、惣田地を六つに分けている。
 同郡市村には寛文十一年の「市村内検地帳」と「市村内検名寄帳」がある(岡文雄家文書)。そして後者の末尾には「右者今度御組頭六兵衛様・小打可仕旨被仰付候而、村中以相談ヲ小打仕御物成高相極申所実正也」と記されていて、この検地が、組頭を通じて福井藩の指令を受けて行われた内検地であったことは明白である。しかし内検地後の各人の所持高の内訳をみると、上・中・下・下下の田畑の所持率は各人各様であり、田畑を交換して所持高の内訳を平均化した形跡はない(表62)。

表62 市村百姓の所持高等級別割合


注) 当村の石高は「正保郷帳」やその後の郷帳では172石1斗3升であるが、この内検帳では約20石多くなっている.

 このように、内検地・割地の実施方法にも村ごとにかなり違いもあり、割地を行えない村もあったようであり、寛文九年二月には「去年申渡候村々田地内割之儀、村により割かね申由其沙汰有之候、兼而申触候儀難渋不届候、早々田地高下無之様ニ内割可仕候」(土蔵市右衛門家文書 資7)というような厳しい催促がなされている。そして同十二年八月には、まだ行われず来春行うという約束だけの村も一部あったようであるが、どうにか大多数の村で割地が完了したということで「わりかへ候様ニと先年申触候、三四年之間在々割替もはやふろく之分事済可申候、……自今以後公儀・割替之儀不及沙汰候」(岩本区有文書)と、藩の割地事業に終止符を打っている。そして、これ以後藩領全域に及ぶ割地は行われなかった。



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