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 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
     三 越前の割地
      初期の割地
 割地制度の前提としては、太閤検地による村請制の確立がある。年貢諸役の納入に向けて村内の個人の損失を村全体で負担していこうという与内(余荷)、土地をできるだけ平均化しようとする地ならし、さらにすべての土地を所持高に応じて公平に配分する割地は、いずれも村請制度のもとで、村人間の不公平をなくそうとする試みであった。
 田畑の損失分を村人全体で分担していこうという考えは、太閤検地直後の吉田郡法寺岡村・坂井郡上金屋村・今立郡寺地村などの内検地帳によっても知られる。また丹生郡中山村のは、すでに慶長五年(一六〇〇)に「此上出入於申分者……田地一円ニ替地ニ可仕者也」(宮川源右ヱ門家文書 資6)と記されており、後の割地に近い考え方がなされている。
 次いで、寛永期(一六二四〜四四)になると次第に割地を行う村も現れてくる。内容についてはよくわからないことが多いが、寛永十一年の坂井郡前谷村の場合は、村高一三九石余を八等分し、一人の持高を一七石四斗(うち四人だけは一升七合を加え、二人分を所持するものが一人)ずつとして、苗代田一万〇八二一歩、谷田五三六歩、畑一万一三七八歩を均等に分けている(土屋豊孝家文書)。
 このように各地で自生的に割地が行われるようになってきたが、これを福井藩は寛文八年(一六六八)から数年の間に藩領全域で行った。



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