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 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
     二 年貢と諸役
      年貢率の変遷
 第十五代福井藩主となった松平斉善は、天保七年に財政難を理由に増高を願ったが、この文中に福井藩領は「薄免」の土地という文言がある(「家譜」)。「薄免」の土地とは年貢率の低い土地ということであり、とくに、九頭竜・日野・足羽川の流域などは洪水  の被害も多く「薄免」の地が多かった。
 荒地が多くても、太閤検地の時に土地相応の高付がされていれば、とくに免を下げる必要はなかったが、太閤検地ではその土地の生産力以上の石盛がなされ、実際の生産力がそれに見合わない場合には、年貢率を下げざるをえない。福井藩領・丸岡藩領・幕府領などにはこのような土地が多く含まれていた。それでも、藩政初期にはかなり高率の年貢が課されていたが、中期以降年貢率は次第に低下し、福井藩も領知高の四〇パーセントを確保することは容易ではなく、表61のように、時代が下るにしたがって低下し、後には三〇パーセントを割る年もあった。

表61 福井藩の平均免の変遷

表61 福井藩の平均免の変遷
 福井藩が寛文八年から延宝五年まで採用した「百姓代官」の制度は、代官を廃し、百姓身分である組頭(宝暦十一年に一時廃止され、明和六年〈一七六九〉からは大庄屋と改称)に代官の職務である年貢取立てを行わせたものである。
 これを行う理由として、代官の諸経費を節減することをあげているが、実際は農村の実情がよくわかっている組頭を用いることによって、年貢の増徴を行うことにあったようであり、この時期には、地方知行地からも年貢の一部を借り上げている。図15はこの時期の年貢増徴を示すものであり、大野郡木本領家村一か村のものではあるが、前後の時期に比べてかなり高率の年貢徴収がなされている。
図15 木本領家村年貢率の推移

図15 木本領家村年貢率の推移
注) aは百姓代官が年貢取りたてを行った期間である。

 また、福井藩では中期以後、各村に対してかなりの量の「下行米」が下付されている。これは、義倉等と同じく、潰百姓が出ないよう、荒廃しつつある農村の救済策としてとられたものであろう。また藩としては、低率ながらも年貢率の固定化を図るとともに(定免の村は限られたものであったが、初期に比べて年貢率の変動幅は小さくなり、ほとんど定免に近い村も多かった)、一方で臨時の御用金・調達金等への依存度も強めている。
 丸岡藩でも同じような傾向がみられる。元禄八年本多氏改易のあと新たに入封した有馬氏は、本多氏時代の年貢率を継承し、領知高の四〇パーセントの年貢確保を目指したが、実際には引高なども多く、三八パーセントぐらいにしかならず(「国乗遺聞」)、享保期以降には大多数の村で土免が行われるようになるとともに、年貢率はさらに低下していった。
 越前の諸藩と違って、小浜藩では比較的高率の年貢徴収が行われている。また、年貢率は三方郡鳥浜村では図16のような推移をたどり(千田九良助家文書)、新庄村も同じような傾向であった。年によっては大量の引高が行われる年もあり、慶安四年(一六五一)・享保六年・天明期(一七八一〜八九)・天保期など、村高に対する年貢率(高免)はかなり大きく変動するが、高から引高を差し引いた残高に対する年貢率(有毛免)は、元禄期頃から一定化している。
図16 鳥浜村年貢率(有毛免)の推移

図16 鳥浜村年貢率(有毛免)の推移



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