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 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
     二 年貢と諸役
      年貢の不納
 年貢のうち夏成は五月頃に納め、本年貢は稲の収穫後の八月から十二月にかけて、米・金・銀で分納し、年内に完納することが原則であった。しかし完納が困難な村も多く、年内に一部しか納まっていない場合は未進、いっさい納まっていない場合は不納と称した。『地方凡例録』には、次年度の五月まで不納の時は田畑を取り上げ、村中に預け、耕作の人夫は村より出させ、種・肥やし代は出すが、収穫はすべて領主がとるといったことが記されている。
 福井藩では延米・売付米ならびに、二月に切米取に支給される切米を一時百姓に貸しつける奉公人米など、次年度の納入を認める制度もあったが、奉公人米返還の最終期限である六月が限度であった。完納できない場合は代官下代が押し掛けてきて家・土蔵や屋敷中の竹木はいうまでもなく、布子や明日の食料、そのほか鍋・釜、それでも足りぬ時は農具まで取り上げ、家を追い出し乞食にするまで取り立てた(「福井藩役々勤務雑誌」松平文庫)。
 その他の諸藩でも取立ては厳しく、丸岡藩では、完納できない百姓があれば、その村の庄屋も町宿預けとなり、厳しい詮索と督促が行われている。まだ皆済の可能性がある場合は来春月割で上納することが命じられ、借金なども多く見込みのない場合は、散田追放といって居屋敷・田畑を没収され領外または国外へ追放されることも多かった。高椋節夫家所蔵の御用留によれば、宝暦七年の野中山王組(大庄屋組)だけでも、大森村三人・与河村八人・畑中村三人・田屋村七人・篠岡村四人・曽々木村五人・儀間村一一人が散田追放、または散田追放のところを他の村人の助けによってようやく免除されるといった有様であった。



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