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 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
     二 年貢と諸役
      押田村の年貢納入
 続いて今立郡押田村の享保二十年の物成納方本通(宇野名左衛門家文書)により、福井藩の事例をみてみることにする(図14)。当村は背後に村国山を背負い、日野川を渡れば府中に通ずる村であり、「正保郷帳」では村高二五八石七斗六升二合(うち畑高一六石八斗四升二合)であり、「天保郷帳」でも村高は同じであった。年貢率は村高の四割前後であり、越前国内では年貢率がやや高い村といえる。
図14 押田村の年貢内訳と納入方法

図14 押田村の年貢内訳と納入方法
注1 年貢の割当は納升(京升1.14倍)で記載されており、納方は京升で記されているが、表内の石数はすべて京升に換算したものである。
注2 ※12匁1分8厘は、12匁7分8厘と記すところを誤って書き記したと考えられる。

 米で割り当てられたものは、取米(本途物成)と取米の三パーセントに相当する口米、村高の五・七パーセントに相当する夫米、それと山手である。合わせて一三九石六斗二升八合五勺となり、年貢のうちの大部分を占めている。割当ては納升でなされており、払方は京升で記されているが、図中の石高はすべて京升に換算した。銀納分としては山手銀一〇〇匁、雪垣代一二匁九分四厘、合わせて一一二匁九分四厘で米に換算すれば二石ないし三石となる。米納割当て分に比べればわずかなものであり、このほか、糠・藁は現物で割り当てられている。
 納入方法は、米で割り当てられた取米・口米の一部である一一石八斗五升六合と夫米・山手米並びに糠・藁の大部分が銀納である。また、年貢の大部分を占める取米・口米は、夏成と称して下下綿などの畑作物または米で前納する分も含めて年内にほとんど納入される。そのほか籾で代納した分もあり、売付米や奉公人米などのように翌年納入のものもあった。



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