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 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
     二 年貢と諸役
      野中村の年貢納入
 図13は、幕府領の坂井郡野中村の宝暦八年(一七五八)における年貢割当と納入方法を示したものである。大河川周辺の越前の平野、とくに坂井郡では、用水が得にくいうえに排水も悪く、洪水に見舞われるたびに何日も水が引かない田地があり、本途物成の率が一割前後という村も多かった。同村もこうした村の一つであり、兵庫川右岸の自然堤防上に立地し、「正保郷帳」では村高四三二石三斗一升(うち畑一六三石四斗一升)で、毎年のように水害・旱魃の被害を受け、本途物成も村高の一割前後であった。この宝暦八年という年は、村にとっては特別な災害にも見舞われず、平均的な収穫の年であった。
図13 野中村の年貢内訳と納入方法<BR>

図13 野中村の年貢内訳と納入方法
  注1 江戸廻米・大坂廻米・大坂廻籾・置米・石代金納などの額は年によりかなり異なっている。
  注2 年賦夫食返納は割付状にはないが、皆済目録中には年貢に加えて納められている。 

 まず本途物成は、六八石二斗一升四合で、本田分の六八石一斗九升六合と新田分一升八合である。本田の年貢率は一五・七パーセント、新田は本田よりはるかに低く、二・三パーセントであった。夫米は本田高に五パーセントの割合で課されたが、洪水や凶作の年には本田高の一部も新田と同様免除されている。口米は本途物成と夫米の本来米納すべき分に賦課されており、米納分の三パーセントであった。
 六尺給米・伝馬宿入用・蔵前入用は幕府領において高掛三役と呼ばれ、六尺給米は江戸城内の台所で使用する雑人夫の給米となり、高に〇・二パーセントの割合で課されたが、越前の幕府領では新田高にのみ限って〇・二パーセントが課された。伝馬宿入用は五街道の本陣・問屋の給米や宿駅の経費に充てられたもので、高一〇〇石に米六升が課され、蔵前入用は浅草にあった幕府米蔵の諸経費に充てられ、高一〇〇石につき永二五〇文(四分の一両)であった。当村における小物成と称するものは糠・藁代だけであり、高一〇〇石につき糠代は永一〇〇文、藁代は九〇文と定められており、これには三パーセントの口永が付加されている。
 納入方法は糠・藁代と口永や蔵前入用のほか、米で割り当てられている伝馬宿入用・六尺給米・口米が永に換算され金納されている。残る米納分は本途物成と夫米の八九石八斗二升九合であるが、このうち大坂へ送られる分が四九石六斗六升、うち二二石三升分は籾四四石六升として送られている。
 江戸へ送られる分は二一石五斗であり、九石七斗七升四合九勺は永八貫五五七文八分で代納され、五石六斗六升八合一勺は江料米として用水普請等に、五石は置米として諸賃米に用いられている。また、宝暦五、六年に拝借した米をそれぞれ五年賦で返済することになっており、合わせて一石七斗七升四合を別に納めている。



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