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 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
     二 年貢と諸役
      定免法と土免法
 定免法は二・三・五・七年などと年期を限るか無年期で、それまで一〇年間ぐらいの年貢の平均をとり、豊凶に関係なく納めさせる方法である。しかし幕府や諸藩の定免法には破免条項もあり、幕府は享保十七年(一七三二)に三割以上の被害があった時には、その年に限って検見取を行うことを定めている。
 幕府領では享保七年から全国的に実施されたが、福井藩ではそれ以前から定免法を採用している村もあり、勝山藩では小笠原氏の入部当初の元禄十年(一六九七)から多くの村で定免法が採用され、鯖江藩も十九世紀には大多数の村で採用していた。
 また、丸岡藩や小浜藩等で採用された土免法は、土地の善し悪しを基準にして租率を春のうちに定めるものであり、農民の願いに応じて行われることが多く、二年、三年といった年期を限り、同一額の年貢を納めることが認められたという点など、定免と大差がなかった。丸岡藩では延宝期(一六七三〜八一)にすでにかなりの村で行われていた形跡もあり(斎藤新右衛門家文書)、享保期以降はほとんどの村で行われている(南田家文書)。
 定免法や土免法は、検見役人の廻村の経費節減、検見役人の不正防止、定額の年貢確保、あるいは年貢増徴を意図して行われたものであるが、農民にとっては剰余を蓄えることも可能となった。丸岡藩では土免願のおり夏成免除の願も出されている。率からいえば年貢の二、三パーセントにすぎなかったが、畑作業や山仕事の忙しい
 夏季に、畑作物やその代金で年貢の一部を前納することが、農民にとっては大きな負担であったからである。
 ここで米をはかる升についても触れておこう。豊臣秀吉は全国統一政策の一環として、当時最も普及していた京都の商業升である京升を採用して升の統一を行った。しかし江戸時代の初期にはまだ各地で様々な升が用いられており、統一がなかったため、幕府は寛文八年(一六六八)に京升のみを公定升に指定した。『拾椎雑話』に「寛文十一年十一月十日、明日より江戸桝つかひ可申候御触有、翌年子四月廿六日小浜町中古舛不残会所へもたせ、打くたきかへされ候」とあるように、小浜藩では幕府に従い領内での京升(「江戸桝」)の使用を励行させた。
 しかし藩独自の升をそのまま用いているところもあった。寛文八年、福井藩は幕府に対して「御国通用の納升は京升に一合三勺七才三札増」(「家譜」)と報告しており、幕府の触の後も年貢の割当てなどには旧来の升を用い、年貢納入のさいには京升に直して納めている。丸岡藩も福井藩と同じ納升を用いており、元禄八年以降幕府領から丸岡藩領となった一一か村のみ京升によって年貢を課している。また、幕府領を福井藩が預かったさいには、幕府領からも京升で年貢徴収を行っている。



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