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 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
     二 年貢と諸役
      検見取
 江戸時代は今日と比べてはるかに豊凶の差は激しかったが、各年の本途物成の額を決定するに当たっては、検見取法と定免法の二方法があり、その他土免法も用いられた。
 検見取法は毎年検見を行い、年々の豊凶に応じて物成額を決めていくものである。幕府領では、村役人が田地一枚ごとの作柄を見分して作成した立毛合付帳をもとに、代官手代が何か所かで一歩の稲を刈り、その年の物成額を決め(小検見)、その後さらに代官が村を廻って小検見が適正かどうかを判断し、最終的に物成額を確定(大検見)する方法がとられていた。立毛合付帳は八月ないし九月に作成し、田地一筆ごとに一歩当たりの籾の予想収穫量を、それぞれ七合・五合・三合・無毛などと記載し、玄米の量は籾の二分の一と計算した。そして、この帳面からは一村内の田地の予想収穫米が算出できるようになっていた。
 諸藩でも類似の方法がとられており、福井藩を例にとると、「福井藩役々勤務雑誌」(松平文庫)の「奉行」(表奉行とも称し、幕府や他藩の勘定奉行に相当)の勤務内容に「年の豊凶に寄り実地見分、坪刈或は目撃して其村の免を定むる事あり、免とは作の状況にて四公六民或は五公五民、最も凶作の場合には三公七民と為す、水害等にて立毛なき場合は無毛として租税免除する事もあり、此の場合には奉行并代官役其外出席協議の上其年の納税を定む、此を免切と云て奉行并代官役双方意見を吐露し随分やかましき事なり」と記されている。大検見には、「奉行」が同下代・郡奉行・同下代・勝手役・庶務方・徒目付・目付組の者などを従えて見分に訪れるが、そのさいには駕篭八挺が用いられ総勢は三〇人をこす大掛かりなものであり、村方でも、関係する組頭(大庄屋)・庄屋や雇人など多くの人員が動員されている(加藤九左衛門家文書)。
 「御代官様江年々無毛作難長指上覚」(加藤九左衛門家文書 資3)には、吉田郡鷲塚村の文政五年(一八二二)から天保八年(一八三七)までの無毛・無毛同事・大痛の田地面積が書き記されている。これは毎年の検見に当たって同村から差し出した記録であり、村々からこのように不毛地を書き上げさせることで、引高や下行米を決める参考に供したものである。
 このほか、鯖江藩領内の村々にも内検見差出帳などと表記した帳面が残っており、これには、上・中・下田それぞれについて、前年からの引高と上・中・下毛の田の面積の記載がある。畑についても上・中・下畑それぞれについて、各種畑作物の作付反別と作柄の上・中・下の記載があり、畑作の出来具合も免(年貢率)や引高決定の資料となっていた。
 検見の結果は、年貢率だけで加減するのではなく、引高や下行米などによっても調整されたが、所領によりまたは時代によって違いがあった。



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