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 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
    一 検地と石高
      幕府・諸藩の検地
 太閤検地後、田畑の状況の変化に対して、幕府や諸藩が検地役人を派遣して行った検地もあった。
 有馬氏が後年編纂した「国乗遺聞」には、本多氏時代の丸岡藩では寛永十年より二十年、承応三年(一六五四)より明暦三年(一六五七)、寛文五年、同十一年より十三年、貞享二年、以上五回にわたって検地が行われたことが、その時の検地奉行の名もあわせて記されている。
 検地帳が残っていないので、これらの検地がどのように行われたのか、藩領全域か、数か村だけについて行われたものかも明らかにできないが、丸岡藩では、たびたび検地が行われたようである。そして、これらの検地は石高の増加をねらったものであろうが、結果的にはあまり石高を増やすことにはならなかった。それは元禄八年(一六九五)、有馬氏が本多氏から受け継いだ四万三三一〇石余中に、打出高として記されているのはわずかに二五三石余であり、本高の一パーセントにも達していないことからもわかる。
 また、越前の幕府領では宝永五年に検地が行われている。同三年の「検地ニ付村々触書請書写」(石黒又八家文書、印牧一弥家文書)は、検地に必要な諸帳面・絵図や検地のさいの宿・人足の準備をすること、この検地を大野・坂井・南条三郡のうちの「各組下四拾ケ村」について行うことの申渡しと、これに対する三郡の四人の大庄屋の請書、下郷村など大野郡の一八か村の庄屋・長百姓の請書とからなる。
 「各組下四拾ケ村」の組は大庄屋の組と思われ、この検地は、越前の幕府領すべてについて行われたようであり、三郡それぞれに宝永五年の検地帳が残されている。
 さて、この宝永五年の検地について木本領家村のものをみてみよう。この検地は全国的な幕領検地の方針に従って行われたようで、単位は六尺一分を一間、三〇〇歩を一反とするもので、田畑をそれぞれ上・中・下・下下に分け、その他、屋敷・砂畑などの記載もある。本田畑の斗代は、上田から一石八斗、一石七斗、一石六斗、一石五斗、上畑から一石六斗、一石五斗、一石三斗、一石一斗となっており、屋敷は一石六斗、砂畑八斗であったが、新田の場合は上田が一石六斗となっている。 写真94 木本領家村検地帳

写真94 木本領家村検地帳

 ところで、太閤検地では六尺三寸が一間であったものが、宝永検地では六尺一分を一間とするようになり、斗代にしても決して甘くなったわけではないから、当然田畑の面積が増え石高は増加せねばならないはずである。ところが、現実はそうではなかったようである。
 宝永五年の検地帳が残る村について、宝永検地の石高と、太閤検地の石高をほぼそのまま継承していると思われる「正保郷帳」の石高とを比較したものが表60である。一二か村のうち七か村において石高はむしろ減少しており、全体では六三六石余、「正保郷帳」の石高の約一三パーセントが減少している。このことは、江戸時代の耕地が不安定な状態にあったことを示すとともに、慶長三年の越前における太閤検地の厳しさを物語るものでもあろう。

表60 宝永検地と村高の増減

表60 宝永検地と村高の増減

注) 宝慶寺村高は宝慶寺寺領を含む.



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