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 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
    一 検地と石高
      内検地
 先述のように、太閤検地のさいすでにかなりの面積の荒地にも高い斗代が付けられており、将来的に開墾可能な土地も石高に結ばれていた。したがって太閤検地直後から、検地で決められた石高・面積と実際の石高・面積が食い違うといったこともあった。
 こうした場合内検地が行われ、村内での農民各人の持分の調整が図られたが、村によって様々な対応があった。耕地面積の増減を(多くは減少であり、高に見合う土地がない時には無土高とも称した)調べ、増減した高を村人の持高に応じて配分したり、減少分を差し引き、実際の高を基準にして年貢諸役その他の負担を割り当てた村もあった。また、実際の生産力とは関係なく、田畑・屋敷の斗代を増減することによって村高を一定に保ち、百姓の所持高の内容に不公平が生じないようにした村もあった。
 例えば、坂井郡上金屋村では、慶長四年に「金屋村田畑小割」(土肥孫左衛門家文書)の帳面が作られており、これによれば、村高二四四石二斗三升のうち荒地高が三〇石八斗四升二合あり、各人の所持高に応じて配分されている。荒地があったとしても村高を少なくすることはできず、村人がその持高に応じて欠損分を負担するという方法で対応しているのである。
 同様のことは吉田郡法寺岡村や今立郡寺地村についてもいえる。法寺岡村の面積は慶長三年に一〇町八反七畝二三歩あったものが、同十二年の「名寄帳」(法寺岡区有文書 資4)では七町二反四畝一五歩半となり六七パーセントに減少しているにもかかわらず、村高は変化していない。また、「名寄帳」の末尾には、「今度之検地、川崩ニ付て如此候間、自是以来も河くゑ申候ハゝ、惣村中罷出検地仕候て、歩有次第ニ御算用申、河流を惣中として指引可申候」とあり、この場合、各田品の斗代をそれぞれ高くすることによって対応している。
 こうした意味では、安沢村の享保十四年(一七二九)の「坂井郡安沢村高附人家諸色御改帳」(『越前国宗門人別御改帳』)なども、欠損地と斗代の関係を示すものである。すなわち、当村の斗代は、太閤検地帳によれば上田一石五斗、上畑一石四斗などであり、享保十四年にも上畑以外はすべて太閤検地の時の斗代が継承されている。しかし上畑は、二石九斗八升一合四勺三才という非常に高い斗代となっている。これは太閤検地の時に二五町九畝一五歩あった上畑が一〇町一反に減ったことに対して、太閤検地時の上畑の石高三〇一石一斗四升を一〇町一反に対応させたため、上畑の斗代だけが極端に高くなったようである。
 このような様々な操作が多くの村で行われており、実際の生産力とはかけはなれた高い斗代の村が坂井郡などには多くみられる。
 ところで、実際の生産がどうであったかについて、吉田郡志比境村でみてみよう。当村は九頭竜川沿いの欠損地の多い村であり、郷帳記載の村高には変化がないが、実際の植付高ははるかに少なかった。
 当村には宝永二年(一七〇五)から正徳四年(一七一四)まで八冊の「立毛合付帳」(清水征信家文書 資4)があり、これによって上・中・下田一反当たりの予想収穫量を算出すれば表59のようになる。太閤検地の時の斗代は上田一石六斗、中田一石五斗、下田一石四斗であるが、宝永六年以外はこれらの斗代よりはるかに低く、また宝永六年のように、上田よりも中・下田の方が多くとれる年もあり、太閤検地の時の上・中・下の評価と、その後の実際の生産にはかなりの相違があった。これをそのままそれぞれの年の生産と考えることはできないとしても、太閤検地の斗代と実際の生産がかなりかけはなれていたことを示すものではあろう。

表59 志比境村の田品別予想収米

表59 志比境村の田品別予想収米
注) それぞれの年の「立毛合付帳」(清水征信家文書)により作成.



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