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 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
    一 検地と石高
      新田開発
 江戸時代前期の新田開発には、今立郡鳥羽野の開発や同郡の篭掛・蒲沢・稗田・東青・西青村などの開田、南条郡関ケ鼻や鯖波・阿久和・中小屋村、吉田郡北野村、大野郡塚原野荒野周辺の蕨生・下唯野村、敦賀郡市野々村、三方郡三方五湖周辺の気山・田井・久々子・大薮村などの開田がある。中期には丹生郡金屋・恐神・菖蒲谷村の漆畑の開発や今立郡志津原・月ケ瀬村の開田、後期のものとしては吉田郡上浄法寺・下浄法寺・栃原・吉波・岩野村の開田や坂井郡北潟湖の干拓などが知られている。
 これらのうち大規模なものとしては、寛永四年(一六二七)成立と伝えられている北野新田や、寛文期(一六六一〜七三)の三方五湖周辺の開発などがある。前者は九頭竜川の氾濫原を開発して一一七五石余の新田を作り(「貞享国絵図」には、新田高一一七三石七斗九升八合と、そのほかに開発高一石九斗五升を記す)、上新田村(三八一石余)、中新田村(三一〇石余)、下新田村(四八四石余)を新設したものである。ただし、中新田村・下新田村は新たな村を作っているが、上新田村の百姓は北野村の下村に居住していたことが『越藩史略』や『越前国名蹟考』などに記されている。慶応元年(一八六五)の北野下村の「高持家数男女馬五ケ年御免付指出帳」(『越前国宗門人別御改帳』)では、北野下村の高持百姓三〇軒のうち、二七軒までが北野下村の高と上新田村の高をともに所持していた。
 後者は大地震によって三方五湖の水が日本海に流れなくなり、水没地が多くできたので、浦見川を掘って湖水を流すとともに干上地の開発を行い、生倉村(三六七石余)、成出村(三九五石余)の二村を新たに作るとともに、その周辺の開発をも進める大事業となり、寛文四年に一応完成をみたが、その後も少しずつ開発は進められていったようである。
 しかし新田の多くは小規模なものであり、農民が農閑期などを利用して、山裾や山間地、河川敷や氾濫原の荒野などを少しずつ開発したものであった。
 新田開発と切り離せないのは用水である。北野新田用水・栃原五ケ村開田用水などは九頭竜川をせき止めて取水し、関ケ鼻用水は日野川をせき止めて取水している。小規模な開田などには、近くの用水から水を分けてもらうこともあり、水争いの原因にもなった。
 延宝六年(一六七八)の大野郡木本領家村の「村極証文」(五畿屋文書 資7)では、本村並びに枝村である「荒子村」で当時開発が進められていた「川原」や「向山田」などについて、次のように規定している。(1)「川原」の田は本村分・荒子村分ともに用水を必要としない畑とする。(2)「向山田」のうち荒子村分の「沢田」については清水が湧き、畑にならない所だけ堀田にしてよい。ただし、そこへ用水を引くことはならないし、畑にできる所は畑にする。(3)「向山田」のうち荒子村分の「大薮」については湧水がないので畑にする。荒子村分以外はたとえ湧水があっても畑とする。(4)今後旧来の畑を掘田にすることを禁ずる。
 新田が旧来の田畑の水不足の原因にならぬよう厳しく規制したのである。
 また木本領家村は、貞享三年(一六八六)幕府領となるが、翌四年の新田検地でこれまでの見取場が高付けされた。惣百姓はこれら新高の分について、当村では渇水時には水を引かないことになっている旨を代官手代に申し出て了承を得るとともに、今後は新田畑の開発を行わぬ旨を村中で取り決めている(五畿屋文書 資7)。
 文化七年(一八一〇)の勝山藩領大野郡牛ケ谷村の「一切訳合有増覚帳」(玉木右衛門家文書 資7)には、牛ケ谷村の「上山」と称する山を開田しない理由として、(1)本田の肥やしを取る山であること、(2)この山を開発すれば本田が水不足となること、(3)本田が耕作しきれずに余っていること、(4)惣山として村人で利用していた山が、所帯がよくて開発のできる少数のものの田畑になること、などをあげている。
 ここでも、新田開発を行うことによって、本田の用水が不足することが指摘されており、新田開発と用水の関係がうかがえる。



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