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 第三章 近世の村と浦
   第二節 平野の村々
    一 検地と石高
      越前の石高
 越前では慶長三年(一五九八)の太閤検地で四九万石余から六八万石余と石高が改められた。この検地は太閤検地のなかでもとりわけ厳しい検地であった。六尺三寸を一間、一間四方を一歩、三〇〇歩を一反とし、京升ではかるという点ではこの検地も他の多くの太閤検地と同様であったが、田畑の等級は多くの場合、上・中・下の三つと、「当荒」「永荒」があり、このほか麻畑・桑畑・屋敷が記載されている。斗代は田畑ともに高く、麻畑・桑畑・屋敷には上畑並あるいはそれ以上の高い斗代が付けられることもあり、「当荒」「永荒」などの荒地に対しても、等級本来の斗代よりは少し低いか、同じ斗代が付けられている。

表58 越前の太閤検地斗代

表58 越前の太閤検地斗代
注) (  )内の数は荒の斗代. 
 表58は坂井郡大味村(村高一八二〇石余)と足羽郡大土呂村(村高九五一石余)の検地帳に記載されている斗代である。いずれも上田は一石七斗の高い斗代であり、上畑は下田と同じである。桑畑・屋敷は大味村では上畑より高く中田と同じ、大土呂村では桑畑が上畑と同じで、屋敷は上畑より一斗高くなっている。また、荒地についても、大味村では普通の田畑より一斗ないし三斗低く見積もられているだけであり、大土呂村の場合はまったく同じ斗代となっている。しかも、荒地は一村の石高のうちでもかなりの比重を占めており、大味村では村高の三三パーセントに当たる約六〇〇石、大土呂村では四〇パーセントに当たる約三八〇石が荒田畑であり、これらのなかには持主のない「無主」の田畑もあり、「惣作」「村請」などと称し、村全体で管理したものも多かった。大味村では村高の九パーセントの一六六石が「惣作」の田畑であり、大土呂村では三一パーセントに相当する二九三石が「無主」または「村請」の田畑であった。こうして田畑・屋敷すべてを合せた一村全体の斗代は両村とも約一石五斗にもなっている。
 以上のような高い斗代は越前の検地全体についていえることであり、丸岡藩領の各村の検地帳の末尾を写したものと思われる「丸岡領村々太閤検地帳抜書」(吉沢康正家文書 資4)によれば、上田の斗代の多くは一石六斗から一石九斗のあいだに、上畑・麻畑・桑畑・屋敷は一石五斗から一石七斗のあいだに集中している。
 このように太閤検地によって定められた石高は、多くの村々で江戸時代を通じて引き継がれていった。しかし実際にはそれだけの生産は得ることができなかったようであり、年貢率が一割前後の村も多く、江戸時代の地方書である『地方凡例録』にも、越前は「取箇ハ格別余国に勝れたるやうに見えず、全く国高を多くする為に、古来不相応の石盛を附たることと聞ゆ」と指摘されているように、実際の生産力以上に石高を決められた地域であったと思われる。



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