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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
     三 村の共同と秩序
      過料と村八分
 村による処罰の実例をいくつかあげよう。享保十九年、水海村で麻・稲を盗んだ二人が見つけられた。知縁の者が詫言をしたので領主へは届けないことになったが、そのうちの一人は常々よくない者なので「村之ましわりを差留」ることを連判して決めた。そしてさらに申し合せて、盗人を見つけたら庄屋へ届け、領主へ注進して処罰してもらう。しかし「軽キ事ハ居屋しきを為開、山之根か荒川原江家を為引、村中之交り為仕申間敷候、尤かるき事ニ慥成一家之者有之、此已後正路ニ為勤可申請合候ハゝ村中江証文ヲ取、元之通可差置候事」(鵜甘神社原神主家文書)と定めた。村の交りをやめる、つまり村八分の方法は集落から立ち退いて村端の山ぎわや野川原に住まわせることであったことがわかる。おそらく火の貸し借りもしなかったのであろう。
 遠敷郡本保村では明暦元年(一六五五)に「五人組はつし」を領主側へ届け出ている。村が列挙した理由は、草山の口明け期限を守らず、番水を四度も切り落した、前年にも他人の田の稲を掘り返した、村中を倒し黒土にすると常々悪口を申している、去年の検見の時五人組ごとに作った四冊の帳面は互いに見せない定なのに三組分の帳面をだまし取って勝手に直した、寺の田を自分へ取り、村からたしなめたところ惣中へ対して雑言を申した、かじけ百姓の一人を他郷へ追い出してその屋敷を取り上げて自分の持高にした、ということであった(清水三郎右衛門家文書 資9)。
 元禄八年、大野郡皿谷村で、平六(松浦家)の持山で草を盗んだ者が見つかり、詮議を受けて九年以前から田畑や山で数度盗みをしたことを白状したので、村で定めた過料銀一枚を出すこと、もし支払いが遅れたら公儀へ申し上げることを証文に書いた。しかし銀一枚を支払えなかったため代官所へ届けられ、「てかね」(手鎖か)を打たれて吟味されたが、村からは互いに盗みをしない旨の連判状を提出し、平六も詫言を入れたので牢舎になるところを免れた。また過料銀を出すべきところ、庄屋と与頭二人が平六からもらい下げた。再度悪事をすれば定めの過料銀を出すことを誓い、そのしるしとして本人から平六へ酒一斗を出して事済みになった(松浦平六家文書)。この一件は代官のほうでも村法による軽罪人の処分を許容していると読みとれ、また村方でも、このおそらく貧しさゆえの盗人には過料銀の厳格な取立てを緩めているのである。
 元禄九年、丹生郡小丹生浦で持仏の押領をめぐる出入があった。又左衛門は父の死後、持仏とその諸道具を母にその一生の間預けていたが、母の死後も兄弟かと思われる男が返そうとしなかった。村役人が返すように言っても聞かず、大庄屋へ訴えて双方の申分を聞いたうえでその男の非分とされたが、それでも返さなかった。そこで五人組頭が相談してその男を「村ヲ追払申候」と連判して決めた。その文言によればその男は水役(無高)の者で「つねつね悪人ニて」、他国へ商いに出て無法押領をしており、以前から村を追い出せという声もあったので、このさい追払いにするということであった。もっとも、一族の者が詫言を入れて、連判の翌日にその男が自分の非分押領を認める詫状を出し、またその男の腰持ちをした者も詫状を出してこの一件は落着した(刀外字茂兵衛家文書 資3)。
 延宝八年に三方郡上野村で女房を盗んだ、つまり密通のことが発覚した。つつもたせかとも疑われたがそうではなく、寺方の関係からか隣村の佐野村の惣百姓が詫言をし、男は「くびの代り」を出し、女は「頭ヲそり」詫びて赦された(野崎宇左ヱ門家文書 資8)。密通について奉公人の掟に「傍輩之内密通致間敷候事」(城地六右衛門家文書)と定めた例はあるが、村極では未見である。定めるまでもない倫理であったのであろう。
 寛政十年の事例であるが、足羽郡中手村で四人を集めて「はくゑき宿」(博奕宿)をした者が「惣村中惣御百姓中惣誤」をして内分に済ませてもらっている。どんな謝り方をしたのかよくわからないが、過料も取られていないようである(内倉甚右衛門家文書)。
 最後に、村八分になった者が帰村を許された例を一つあげておこう。享保十年七月、坂谷六呂師村で五年前に村の法度に違背して立退いた者が、この年三月に大野郡大月村へ立ち寄って暮していたところ家屋が類焼にあってしまった。そこで、六呂師村の寺に取持ちを頼んで村へ帰れるよう願ったところ、庄屋と本百姓が相談して認められた。そこで、証文に御公儀の条目・触を「村並ニ」守る旨をしたためて・庄屋・惣村百姓へ宛てて出した(松村利章家文書)。
写真93 六呂師村へ帰村の一札

写真93 六呂師村へ帰村の一札

 以上、村法による処罰は村人の総意に反する者、心情を害する者や知縁の取りなしのない者には容赦なく適用され、時には見せしめのためにも投書や鬮引で犯人が仕立てられたが、他方で縁者や村人の取りなし、詫入れがあり、本人の改心が認められると軽減され、内分にして誤り証文だけで済むことがあったことがわかる。そしてそこに、世間にさからわず、村社会に和融して生きることを良しとする封建的な処世のあり方をうかがうことができる。



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