罪の軽重を問わず、それを罰することは領主も定めており、本来は領主へ届け出てその裁きを受けるべきものであるが、また領主は、百姓同士のことはまず百姓相互間で解決させるという、いわゆる内済の原則をとっていた。こうした支配の下で、軽犯罪などについては村が独自に村法によって過料米銭の額を定めたり、所追放などの処分を定めていた。補足してもう一例だけ加えておこう。寛文九年、吉田郡幾久村で畦直しの村極をした時、その規定に背けば「村ヲ立出し、隣ニ不限火取やり仕間敷候、其上七年之間付合被仕申間敷候」と定めた。火の貸し借りを禁ずることは、元文五年(一七四〇)の畦直しの村極証文では期限をつけずに書かれている(小沢元滋家文書 資3)。
次に、享保十三年、福井藩預所丹生郡天王村と枝村である宝泉寺村の役人が相談して、近年村人は盗人を見逃して穏便にすることを良いことのように考えており、他村の者から盗人の名を指されることもあるので従来の村法を厳しくして適用することにした。内容は田畑の諸作や柴・草・木の実等々について、数項目にわたって疑われるような行為をしないよう細かく定めたものである。例えば「稲にう」のある田へ入らない、落葉かきに山へ行く時は鎌を持たない、自分の稲・大豆・小豆や薪なども夜更けに運ばない、など。そして、盗人と疑わしい者があれば庄屋へ断り、時にはただちにかけつけて家捜ししてもよいと定めている。また、身持の悪い法外な者は村中で選び出して火の取りかわしをしないとも定めている(内藤源太郎家文書)。 |