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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
     三 村の共同と秩序
      生活の規制
 今立郡岩本村では近世初期にいくつもの村極の連判状を作っている。本節第二項で述べた寛永十一年の歩きが二回触れ廻り次第に寄合に出るとの規定もそれであるが、寛文五年には着類は木綿布、役人への礼物禁止、組頭の村での長逗留禁止、分限をこえた振舞いの禁止、組頭・庄屋の規定以上の入用割かけ禁止、用水配分は役人の指図に従うこと、配符の遅延は庄屋の越度、博奕制禁の遵守を定めており、その内容は総じて領主の法度を守るよう村として定めたものである(大滝神社文書中の川崎家文書 資6)。
 寛文八年の二月には耳鼻をそがれた者(前科のある者)、牢人・坊主をはじめ見知らぬ者への宿貸し禁止、夜番の強化を定め、また四月には内緒で金銀の貨幣を扱った者は御札所へ届けると定め(岩本区有文書 資6)、六月には「在々ニ而可売物」と「在々ニ而不売物」を区分して百姓に似合わない酒・煙草・飴・菓子などの商人の立寄りを禁止した(大滝神社文書中の川崎家文書 資6)。翌七月には百姓に相応の小間物として二〇種を指定し商売を認めている。八月には、役人の来村に備えてであろうか、庄屋等は村境まで出る、組頭は支配の所の道筋へ出る、百姓は馳走がましいことはしない、貸銀の額、田地の出分、山手に比して不相応に多い持山、新田にできる所は偽りなく申し出ること、身上のよい者から無理非道な目にあっている者や、親方・親類に対して不敬非儀の者があれば申し出ることなどを取り決めている(岩本区有文書 資6)。
 翌寛文九年にも二月に地割一札を定め、三月に地割に関連することをあれこれと定めるとともに、親子兄弟の公事(訴訟)は村中が寄り合って理非を定める、非分を認めないなら村追放、証文に判形したうえは後日に否定できないなどのことを決めているが、これも領主の申渡しを請けて連判したものである。同四月には絹類の着用の禁止、五人組頭の組内吟味、用もなく門辻に立つ者を追い払うことを定めている(岩本区有文書・大滝神社文書中の川崎家文書 資6)。
 これらはすべて連判状で、その連発の状況にいわゆる惣百姓の村の成立をみることができるが、日常生活の治安・統制について領主の法を受け容れながら村法を定めていったことがうかがえる。
 このほか、丹生郡横根村には寛永年中の村法の写があり、年寄仲間入り、その足洗い(脱退)、烏帽子着、正月四日の「おこなひ」、正月六日の「山開」、正月九日と十一月九日の横根寺からの振舞い、八月九日の「口あけ」、十月の「餅見」、十一月の頭人に饗する「番てう」という行事などの米・酒・豆腐の量や料理の品目を定めてある(青山五平家文書 資6)。
写真91 横根村法

写真91 横根村法

 また同郡の大野藩大樟浦では宝永元年に役銀について定めているが、当時の丸役銀は二四匁で、子供が一五歳になると銀一匁がかかり、以後累進的に増えて二二歳で丸役を納め、また五七歳になると丸役から三匁ずつ引き、六〇歳からは五匁ずつ引いて、六二歳で納めなくてよいことになっていた。そして、頭を剃った者はその年の役を免じるが、船に乗って漁をすれば「壱数縄」につき銀三匁、漬舟なら二匁、通船は月に銀五分、鰯網船は一匁を取り立てるとか、病人は六〇日以内に本復すれば丸役、それ以上の日数は日算用で免じるとか、その他、入聟・欠落・入百姓・死去人の場合など、それぞれについて詳細に定めていた(木下伝右衛門家文書 資5)。
 大飯郡上下村も正徳二年に村極を作って、旅人に宿貸のこと、所御蔵番人、柴草山、井根立て普請、検見の案内、賄の用意、浜夫、ころび(油桐)のことなどを定め、さらに、同四年の山の神講の定、同五年の村寄合の定を書き加えている(村松喜太夫家文書 資9)。内容のいちいちは省くが、宿貸しは一夜だけと定めて、泊りを重ねればそのうちに必ず何かむつかしいことが起きるものであると説明を付けている。蔵番や普請の場合には、人足に子供を出したり、不参・遅参することを規制したものである。ころびの木は杖にしたり、馬をつないだり、実を盗んだりすることを禁じており、大切にしていることがうかがわれる。



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