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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
     三 村の共同と秩序
      漁の規制
 網場について、二例をあげておこう。三方郡神子浦で延宝九年に作った鰹網の法度は誤字・当字があり、内容も理解しにくいが、推測を加えて読めば、「よいかう」(夜間の漁の意か)へ行く時は舟端を二度たたき、二度目に舟を出すこと。朝網は夜が明けてから皆の同意を得たうえで舟を出し、夜のうちには出さないこと、これに背けばその年の鰹網はできない。また追加して「久右衛門網」より沖で立廻し、刺網などをする時に近い・遠いと言い合って申分をすると双方ともその網場を禁止する。双方が網を持っている時は後に入れた網の方を揚げ、網を持っていないならどれほど近くであっても申分をしない。つまり、この内容は鰹網場や沖合で漁船が競合しあって争うことを浦として規制しようとしたものである(大音正和家文書 資8)。
 寛文十年、三方郡日向浦では八、九年ほど休んでいた名吉網を入れる網場を前年に復活したところ「打切たてまわし」網が邪魔になるため、たてまわし網が新法の網なので、反対する者もあったが、これを廃止することとし、村中として六〇人の連判状を作成している(渡辺六郎右衛門家文書 資8)。この連判には反対した者は加わっていないが、村極といってよいであろう。なお、この事例では確かめられないが、技術的に優れ、生産性も高い漁法が導入されても、旧来の漁業秩序を乱す「新法」であるとして訴訟や村極によって排除される場合もままみられた。



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