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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
     三 村の共同と秩序
      水の規制
 大野郡木本領家村の水規制や水争いについては本章第二節でも述べるが、ここでは村中と弥三右衛門(五畿屋)との間での番水刻割についてみよう。この村では延宝五年(一六七七)の福井藩郡奉行の裁可に従って、渇水時には二日二夜の二四時を高割にして、一四時は弥三右衛門、一〇時は村中と分けて配水していた。その刻限は弥三右衛門分は卯の上刻(午前五時頃)から翌朝辰の下刻(午前八時頃)まで、村中分は巳の上刻(午前九時頃)から寅の下刻(午前四時頃)までの定めであったが、実際には朝草刈の仕事があるために辰の上刻か中刻に交代していた。
写真90 木本村絵図

写真90 木本村絵図

 その後幕府領になり宝永五年に検地が行われて鹿右衛門(弥三右衛門分)の高が減り、村分は新高が増えた。弥三右衛門は新高は畑であるから従来通りでよいと主張したが、庄屋・長百姓が扱いに入って一三時半と一〇時半に決めた。しかしやはり朝草刈の関係で実際には村分へ半時ないし一時も水を多く引いていたため、鹿右衛門が水懸りの反歩に応じて分けるよう要求して鯖江役所へ願書を出したところ、役所は大庄屋に内済にするよう指示した。反歩割にすると鹿右衛門分は一五時、村分は九時になるのであるが、大庄屋が扱いに入って鹿右衛門分一四時半、村分九時半ということで内済した。そして、刻限をはかるために今後は「懐中時鶏」を用いることにした。しかし、それは日時計であったので、曇って日影が見えない場合は弥三右衛門方と村方の双方から人を出して大野へ行き、そこで四つ(一〇時頃)の鐘を聞いて木本へ帰れば、一里半(約六キロメートル)を半時(約一時間)で歩くから、着いたら弥三右衛門から村へ水を渡すということにした(五畿屋文書 資7)。これは形式では取替証文に当たり村極証文ではないが、内容からいえば村極に相当するものである。



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