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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
     三 村の共同と秩序
      山の規制
 元禄七年三方郡佐野村の「内山」に関する村定は以下の七項目であった。(1)薪・草を少しでも盗めば江戸升で一斗五升の過料米を取る。従わなければ年貢と同様にして取る。無高の者はその家へ踏み込んで鍋・釜・農具などを質物として取る。(2)盗人を見つけた者は庄屋・組頭へ届ける。見隠した者は過料米五升を取る。(3)内山と蟻ケ腰に持山のない者は行くな。山主の許可を得て行く時は庄屋か組頭へ届ける。(4)草山の口明け以前に自分の田の畦刈をする時は田に足を置いて手のとどく分だけを刈る。これに背けば仏罰・神罰を蒙るであろう。(5)「小草之口」に柴草一本も刈らない。背けば過料米五升。(6)山盗人が他村の者なら鎌・鉈を取り上げ、当村の者なら庄屋・組頭へ届ける。見隠せば仏罰・神罰を蒙るであろう。(7)山分けをしてから年数を経たので境争論が起きているが、近年に刈っている山でも確かな証拠がなければ誓紙を書かせることにする。買い取った山でも境がはっきりしない所では一鎌も刈らない(野崎宇左ヱ門家文書 資8)。
 次に、丹生郡の大虫明神の氏子四か村の場合をみると、大虫明神の「奥山」は、太閤検地以前から社家や氏子が自由に立ち入り用益していたため立木が生え立たず柴草ばかりの山になっていた。そのため谷々の流水が少なく田地の用水に差し支えたので、寛永十九年(一六四二)に氏子四か村で山割することにした。まず村ごとに山剥を定めて、そこで薪などをもっぱら刈り、他は家高に応じて割り、立木が生え立つようにするという趣旨であった。大虫明神の神前に寄り集まって神酒を捧げ、神鬮を引いて割り分けたうえ、それに異議のない旨の四か村証文を作成した。その中で盗人について規定し、山盗人は見つけ次第に過銭米として納升一俵を取る、見隠せば同類として同じく過銭米一俵を取る、けずり草は掃き次第とし、畦刈は田から鎌のとどく限りとする、用木は田地が日蔭にならぬ所に植える、伐畑・焼畑、木の根をこぐことはしない、と定めている(大虫神社文書 資6)。
写真89 大虫大明神山割の覚書

写真89 大虫大明神山割の覚書

 右の二例から、盗人とそれを見逃した者に過料を課すこと、他村の者なら道具の鎌・鉈を取り上げることとされ、過料を課すほどでない場合は仏罰・神罰を受ける、誓紙を書くなど、当時の人々の神仏への畏怖心に訴えて規制している。なお、鎌・鉈や運搬の牛馬の鞍などを取り上げることは、中世以来百姓のあいだでは一般的な制裁方法であり、若越でも山論関係文書の中にしばしばみられる。



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