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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
     三 村の共同と秩序
      村極と五人組・庄屋
 南条郡河野浦では寛文六年(一六六六)に「惣中」が寄り合って山三か所を山分けしたが、その方法は役人(役家)七四人、雑家二七人を「五人与」に組み、雑家には本役の半分を分けるものであった。そして山境の管理、盗伐の吟味、立木の植栽、七木伐採の禁などはその「地下五人与」で「政道」(吟味・処罰の意)するものとし、そのうえでさらに出入があれば「惣在所」として捌くとしている(中村三之丞家文書 資6)。これは、惣中寄合で決めた村極ではあるが、連判したのは庄屋も含めて一八人である。村役人と「五人与頭」であろうか。ともかく「惣中」とか「地下」という古い用語と「五人与」の責任制とから、中世と近世とが混合したような村のあり方または意識が読み取れる。この「五人与」は領主の立てた制度としての五人組かどうか定かでないが、南条郡今泉浦でも寛文五年に山を等分に分けたさいに「五人与」を立てており、その与頭は公儀の法度の伝達をするともされているので、この場合は制度としての五人組のことであると考えられる(西野次郎兵衛家文書 資6)。
写真87 河野浦

写真87 河野浦

 また遠敷郡仏谷村の元禄五年の「法度状之事」(大橋脇左衛門家文書 資9)は五人組別に連判したものである。その七項目の内容は、(1)盗みをした者は本人が埒を明け、村庄屋に難をかけない、(2)御法度の木は伐らない、(3)他国へ出る時は五人組か村役人に届ける、もし隠れて出て難にあえば本人と一門中で埒を明け庄屋・組頭に難をかけない、(4)五人組の中に不審な者があれば、その組の者で吟味する、(5)火の用心は隣同士で用心し合う、(6)総じて悪事をした者はその五人組の者で埒を明け惣中・庄屋へ負担をかけない、(7)小浜へ出た時に御奉行衆など敬うべき人に不敬をすると、村の名が知れて村中が折檻されるであろうから何事も公儀の法度に背かない、背いた場合は庄屋に難をかけない、というものであった。この村極には「当村脇左衛門殿参」と宛名があるので、庄屋脇左衛門の要請を村中として請けたものであろう。したがって実質は請書であるが、請書よりも村として自主性の強い村極の形式をとって村人の自覚を求めたものかと考えられる。
写真88 仏谷村定(末尾)

写真88 仏谷村定(末尾)

 このように庄屋の規制の強さをうかがわせる村極は、有力な大百姓が村政を握っている他の村にもみられる。例えば、大野郡皿谷村の貞享元年(一六八四)の村極は、散田分をはじめ持主のある林でも盗伐があり、盗人がわからなかったため、今後は盗人を見つけたら公儀へ届ける、村で内済にしたら過料銀を出す、という内容で、署名は庄屋と五人組頭、宛所は松浦平六(大庄屋)である。そしてこの文書の題名は「差上相定申証文之事」となっていて、端裏書に「皿谷村山田畑さん田法度事」と記されているのであり、大庄屋の指示があって村方が「相定」め、それを「差上」げたことが明らかである(松浦平六家文書 資7)。村極にも、村の自主性に基づいたものから庄屋・大庄屋に対する請書的なものまで様々であること、権力者が自分の意志を村極化して村法の世界に入り込もうとする様相をみることができる。
 また、享保六年の勝山藩大野郡坂谷六呂師村の「相究申万法度証文之事」(松村利章家文書)では、田畑諸作、地林の立木、および奥山の春木・杪・柴などの仕立ててあるものは、いずれも盗み取らないことを大小の百姓・水呑・孀が連判して定め、違反すれば、「村中吟味之上、其盗人之耳をそき村ヲ払可申候」としているが、これには宛所が「御公儀様」になっている。しかし内容は明らかに村内の相互取決めであり、領主が村の自検断で耳をそぐことを認めるわけもない。領主へ差し出す文書ではないが、その権威を借りたかたちをとったのであろう。
 逆に領主の咎めから庇った事例もある。万治二年(一六五九)、南条郡今泉浦では人改について連判状を作った。それは、二人の者が領主に呼び出されて、他国他領へ逃げて奉公や日用取に出た者があるかと問われ、一人もいないと答えたところ、誓紙血判をさせられたことによるもので、血判した以上は今後は村内でどんな言い分があっても「右にけうせ申候者之儀ハ、弐度訴人仕間敷候」、また今後は逃げたり奉公日用取には行かない、もし背けば二人が押した血判の罰を蒙るであろう、と記している。このことから実は他国へ逃げた者がおり、それが訴人によって領主に知れて詮議を受けたが嘘の答えをしたので、その嘘に合せるために連判し、呼び出された二人を咎めから守ろうとしたものであることがわかる(西野次郎兵衛家文書 資6)。
 さて、庄屋等の選び方、盛・割については本節第二項で述べるところがあったし、本章第二節以下でも村極の事例を取り上げるが、ここではおもに近世前期の村極をいくつか紹介しながら、農民の生産と生活をめぐる共同体的規制の諸相、いわば農民たちの世界をうかがうことにしよう。農業を主とする当時にあっては、とくに山(柴草などの用益)と水(用水)の規制が重要なことであった。



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