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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
     三 村の共同と秩序
      村借
 「百姓は財の余らぬ様に不足なき様に治る事道なり」(「本佐録」)というように、近世領主は年貢諸役を取れるだけ取ることを原則としていたが、領主の財政が苦しい時には年貢の取り過ぎも起ったし、また凶作時や家族労働力が病気や亡くなった場合には農民はたちまち困窮に陥った。百姓は個人的に借金や田畑等の売却、質入れ、また自分も含めて家族を奉公に出して当面の生活を支えようとした。こうした関係の証文類は村方文書のなかに数多く残っている。また年貢を納められない場合、領主に救いを願い、親戚や村に頼んで助けてもらうなどしたが、それもかなわず万策がつきると倒百姓とか潰百姓といって百姓身分を捨てることになる。持高等を手放すことを「散田」ともいった。こうした例も多く知られるが、さらに困窮は百姓個人をこえて村全体に及ぶこともあった。そうした場合、村としての借米・借銀、すなわち村借(惣借)が行われたり、村役人がその責任で借りたりした。
 村借の早い例では慶長六年(一六〇一)に足羽郡椙谷村で五人の連署による「永代うり渡し申田畠事」(上田重兵衛家文書 資7)があり、納升で八斗四升を受け取っているが、文言中に「村中として借用仕、御未進ニ指上申候実正也」とあって未進分の村借であることがわかり、また、これに異議を申す者があれば利息を倍々にするとあって実は売買ではなく質入れであったと思われる。敦賀郡の色浜・浦底両浦では元禄十三年(一七〇〇)に名吉網が古くなって漁ができないため小判三両を半年間、二割の利息で借りている(色浜区有文書 資8)。また宝永元年(一七〇四)には今立郡岩本村で庄屋以下の百姓が連判して紙仕入銀を借りているが、その返済は紙主だけでなく村中で「つら打ニ割符」(大滝神社文書 資6)して出すことを定めている。
写真86 椙谷村の田畑永代売渡証文

写真86 椙谷村の田畑永代売渡証文

 村役人として借りた例は大野郡桧曽谷村にみられ、享保四年に高四〇石五斗と山三か所を質入れして新金一一両二分と米三六俵を借り、その証文に舟寄代官所の下代と思われる渥美段右衛門が裏書きしている(津田彦左衛門家文書)。領主側の承認と保証のもとでの村借であろう。同様の形式の質入証文は翌五年に桧曽谷村のほか同郡志比原・杉山・六呂師村でも作成されている。
 年貢の未進や村盛の不足などを庄屋交代の時に先庄屋が弁済するか後庄屋へ付け送るか、村により、時により違っていた。右の桧曽谷村の場合は、享保十九年に庄屋が交代したさいに、年貢金を引き明けたら庄屋が弁済する旨の請状を出している。南条郡東谷村では寛政六年(一七九四)の村極に、従来は村役人の印形で村借して年内に年貢を皆済してきたが、未進銀が増えて次の庄屋へ引き送るようになっていた。今度、潰百姓が出て取り立てられなくなったので、その未進分は惣百姓に割り合って勘定を済ますと定めている。また丹生郡竹生村では文化七年(一八一〇)当時、未進銀は交代時に後庄屋が先庄屋へ支払う村の定めであったが、支払を延ばしたことからあいまいになり、天保元年になって訴訟が起っている(内藤源太郎家文書)。
 村借のほかに、庄屋の金融機能は村内の者に対しても求められた。文化七年の足羽郡今市村の村極証文は二〇か条に及ぶ総合的な内容であるが、そのなかで、庄屋は年貢納入に差し支えた者があれば村方へ取替銀を出すよう頼んだり、他借できるよう面倒をみること、困窮した者にはその持高・家諸道具に見合うまでの貸付銀の貸与または他借の保証人となることとされている(片岡五郎兵衛家文書 資3)。
 このように近世の村は重い年貢や困窮の危険に対して共同体として対応していたのであり、村という組織は家々にとって不可欠な意味をもっていたのである。そして、それとともに個々の家や人は生産・生活上の村の規制を受けて暮らしていた。



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