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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
     三 村の共同と秩序
      高塚村の階層構成
 まず、正徳四年(一七一四)の幕府領坂井郡高塚村を例にとって村の階層を概観しよう(佐藤禮三家文書)。村高は五七六石八升であるが、うち約二割の一三〇石二斗八升八合は金津と柿原十楽村の越石(入作)になっていた。表56は持高によって階層を区分し、それぞれの下人・地借家・馬を持つ軒数や人数を示したものである。この村では庄屋と長百姓を除く本百姓二〇軒が、大高持と小高持を組み合わせて四組の五人組を組んでおり、ほかに、「水呑百姓」が五軒あった。水呑はすべて「地借」で、地親の「地内ニ別家を作り罷在候」とあって家持ではあるが、地親の家族人数のうちに数えられていて五人組を構成する家ではなかった。

表56 正徳4年(1714)高塚村の階層構成

表56 正徳4年(1714)高塚村の階層構成
注) 正徳4年「御仕置五人組帳」(佐藤禮三家文書)により作成.

 村内でとくに持高の多い二軒は庄屋と長百姓で、いずれも下男下女を抱えており、持高六九石余の庄屋は地借二軒も持っていた。表56から読み取れるように三〇石台以上は地借または下男下女を抱え、馬を持って比較的大規模な農業経営を行っていたとみられる。二〇石台の六軒は地親である家や奉公人を放出する家が交っているが、そのうち四軒が兄弟夫婦や伯母夫婦が同居する複合家族であることが注意される。しかし家族数はとくに多くはないので、一族の労働力を集めて奉公人を雇わずに自営しているのであろう。それ以下の高持層は奉公人を出す階層であり、家族数に比して持高が少なく、請作をする必要のある家であろう。とくに一〇石未満層にその特徴がうかがえる。無高の地借層は、帳面上で地親の家族に含められているように、おそらく地親への従属度が強く、その経営に労働力を提供するか、請作するなどして暮していたのであろう。



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