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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
    二 村の行財政
      庄屋の給分
 庄屋などの村方役人の給分は、近世初頭には庄屋は領主から給分を与えられていた。小浜藩の場合、寛永十一年九月の三方郡気山村指出に庄屋二人に米四石、歩き二人に米一石が「被下候」とあり(宇波西神社文書 資8)、同年の遠敷郡太良庄村(高鳥甚兵衛家文書 資9)、同郡中ノ畑・段村(上根来区有文書 資9)の指出でも庄屋と歩きに米が支給されていたことがわかる。なお、この指出は酒井氏が入封時に京極氏時代のことを調べたものと思われる。酒井氏の代に入ってから村から支給することに変るが、いまのところ年代を特定できない。
 次に、庄屋給には領主が定めた基準があったふしがある。年代不詳であるが、坂井郡野中村で、選出された庄屋を認めようとしなかった者が指し出した詫状の中に、「庄屋給之□(儀カ)、御公儀御定之通、百石ニ壱表ツゝ年々出シ可申候」(小島武郎家文書)と記している。
 しかし、実際にはまちまちであった。例えば元禄十一年の郡上領八か村の明細帳と同年の同藩上野組九か村の明細帳をみると、村高と庄屋給の比率は整合的でなく上野組巣原村は庄屋給がなかった(嶋田次郎右衛門家文書など)。諸役はほとんどの村で免除されているが、郡上領の一か村と上野組の一か村は諸役免除がなかった。また定夫(歩き)については、郡上領では一か村で米一俵・麦一俵を給しているが他は村人が「一日替」に交代で勤めていた。上野組では五か村で給分を出し、他は一日替が三か村で一か村は二日替であった。庄屋・定夫の給物も米を石数を定めたり俵数で定めたりしており、一か村は銀高で定めている。定夫給には米のほかに一部を麦・めさい(砕米)で支給する村があった。このように庄屋・定夫給は村によってそれぞれに違いがあった。
 浦方などでは米銀以外のものが庄屋給とされた。三方郡神子浦では正徳四年に、庄屋給は大網の五〇分の一を得分とし、小物成や諸人夫の亭主割・家割・船役はいっさいかからないことを確認している(大音正和家文書 資8)。同郡世久見浦では明暦二年に網場六か所のうち「公方網」と呼ばれる二側分は毎年交替で庄屋の網を打ち、その一人分の当たり前、合わせて二人分が庄屋の得分であると定めていた。ところが、網に漁獲が少ないために庄屋の公費が足りず退役したいと申し出たので、寛文五年に、右の定のほかにすべての立網から水主半人分ずつ、および枝村の食見から銀二〇匁を毎年庄屋給に充てることに改めた(渡辺市左衛門家文書 資8)。
写真84 世久見浦

写真84 世久見浦

 丹生郡小丹生浦では庄屋給をめぐって紛議が生じた。寛文五年に年貢割付などをめぐって庄屋と出入が起っていたが、庄屋の言い分では畑六か所・山四か所が庄屋給分であるのに、今は畑三か所だけになり、あとは他の者が進退していると述べている。ほかに福井行御用の費用などに銀一〇〇匁、のち二五〇匁を村より受け取っているとも述べているが、この庄屋は刀外字を名乗る者なので、その関係からか右の畑・山の所持権について村人と認識に違いがあったらしい(刀外字茂兵衛家文書 資3)。また浦方ではないが、今立郡下新庄村で明暦四年に庄屋が交替した時、村方から屋敷一か所と田一反余は庄屋給であるから次の庄屋へ渡すといわれ、先庄屋は御検地の時にもらったもので検地帳から除かれているから庄屋給ではないと主張した。そこで御郡所で吟味の結果、田一反は村中へ渡し、屋敷は従前通り諸役なしで先庄屋が所持することとなった(福岡平左衛門家文書 資5)。有力百姓の屋敷田畑等免除の特権と庄屋給とが混同されたのであろう。



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