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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
    二 村の行財政
      組頭・大庄屋の給分
 盛のうち、組頭・大庄屋、庄屋以下の村役人の給分についてみよう。まず、貞享四年(一六八七)正月の、幕府領の「丹生郡横根村明細帳」(青山五平家文書 資6)の記事を一覧表で示すと表55のごとくである。これは福井藩領当時のことを幕府が調べたものと思われるが、組頭は給分のほかに、御用で出張するさいの入用を従者と荷物分も含めて支給され、その家役と居村の高役も規定額が免除されていた。庄屋は家掛役・人足役を免除され、庄屋給のほかに出張のさいの規定額を支給された。二人の長百姓は給分も役免除もなかったが、出張のさいは規定額が支給された。定使(歩き)には給分があり、村役を免除されていた。それらの入用の割付方については前述したが、ただ指摘したいのは、水呑から徴収する役銀は高持百姓のあいだで分配していることである。右の盛の割付は高持百姓だけを対象にしているわけであり、ここに、高持だけによる惣百姓の村という考え方がみられる。

表55 貞享4年(1687)横根村の給分と割方

表55 貞享4年(1687)横根村の給分と割方
 注1 郷盛・諸入用・諸人足・伝馬は高6分・家4分で割り合う.
 注2 水呑役銀は分限見分のうえで出させ、大小の百姓家が割り取る.
 注3 「丹生郡横根村明細帳」(青山五平家文書 資6)により作成.

 組頭・大庄屋について、後考のために断片的に知られる例をいくつかあげておこう。延宝五年の福井藩評定所の触は、郷盛を改定して組頭の福井御用詰、普請所人足・伝馬人足の入用などを郷盛に入れないこと、郷盛米を高一〇石当たり米四合から米一升二合に改めること、山・里・浦方の村高の持高の大小差を考慮して割方は高半家半とすることを令している(上田重兵衛家文書 資7)。また、明和六年(一七六九)福井藩では以前の組頭に代って大庄屋を置いたが、その時には大庄屋一人につき給米二〇俵を定めている(「家譜」)。元禄十一年幕府領坂井郡「野中組十八ケ村」の組頭給は銀六〇〇匁で、高半家半であったが、同領の子年(延享元年〈一七四四〉)の大庄屋一〇人の書上では大庄屋一人に給米二六俵とあり、そのうち六俵は小者給であった。ほかに筆墨紙代が銀二〇〇匁であった。その後、年代不詳であるが、郡中の負担を重くしない配慮から、総額を米一五六俵、紙代銀一貫二〇〇匁とし、それを一〇人の大庄屋が支配高に応じて割り合うことに改めたいと願っている(小島武郎家文書)。丸岡藩では、元禄十二年組頭給として一人当たり二俵の給米を与えており、正徳四年「万年帳万付込」、元文四年(一七三九)「万年手帳覚」(土肥孫左衛門家文書)でも村高の〇・五パーセントを組頭の給分としている。
 幕府領になったさいに作成されたと思われる正徳三年の「今立郡月ケ瀬村鑑帳」(上島孝治家文書)によると、以前に幕府領であった時の大庄屋給は米五〇俵で、組内の村へ高半家半で割り当て、ほかに旅篭代として小者一人も含めて一日銀三匁五分と往返馬賃を出した。また大庄屋の家一軒には掛物が免除されていた。物書給は紙代ともに銀四八一匁で、役家四八一軒へ家割にした。次いで元禄五年に土岐領になると、大庄屋給は米一二俵で、高半家半に割り当てた。なお、初め一七年間は大庄屋の居村にも割り当てたが、宝永五年の冬割から領主側の指図で居村は除外された。大庄屋給が少ないので、加増の意味で大庄屋が「御年貢金改極印  所」を勤め、その入用の残金三〇匁余を役料に充てた。村方へ御用に詰める時は一日当たり銀二匁あてを村方が割り合って出し、御役所へ詰める時は扶持を下された。なお居村を郷盛から除く以前の大庄屋の配符持一人の給分は金三両一分であった。
 勝山藩の場合、享保九年に大庄屋給について大庄屋たちと惣百姓とで申分があって内済としたが、その内容は、来年から高一〇〇石当たり銀三二匁を年三回に分けて納め、その額で大庄屋が請け負うこととした(梅田治右衛門家文書 資7)。ただし幕府巡見使・大坂御番・遊行上人の三種の入用は別に勘定するとしている。なお、算用の立会いは五か村に一人あて、一年回りであった。その後、宝暦四年(一七五四)に改定して銀五貫五〇〇匁で請け負い、舟の新造・修理、中ノ橋、遊行上人、幕府巡見使・検使、薬草の入用は別勘定とすることに決めた(久保長右衛門家文書 資7)。



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