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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
    二 村の行財政
      盛の割付
 盛の割付方法は、先述の桧曽谷・志比境村は高割で、貞享四年の幕府領丹生郡横根村は後掲表55のごとく宿払いと定使給は高半・家半で、庄屋給と郷盛、村入用・人足・伝馬は高六分・家四分であった。すなわち高割は持高の大小に応じて割り当て、家割は家数に割り当て、またその比率を半々とか六対四と定めたのである。
 この割付方も村ごとに様々であり、同じ村でも改定された。例えば、横根村は鯖江藩時代の寛政八年(一七九六)十二月の「村極一札」(青山五平家文書)によると、諸雑用の割付は持高一五石以上と以下で丸役と半役に分け、半役は丸役の半分を割り当てるものとしており、庄屋給米六俵半は惣高割、人足役は高半家半になっている。表55と比べて小高持の負担を軽くする配慮が加わっていることが読み取れるが、実際、この頃の横根村は年貢未進をかかえ、また小百姓たちが年貢割付や不作の引き方に不審を抱いて帳面を監査しており、さらに、庄屋が割りかけた物書代は庄屋が支弁すべきである、長百姓は足役銀一匁二分ずつで勤めてきたのに近年は飯料などを村雑用のうちへ繰り入れて割符している、といった村盛割に対する不満ももっていたのであった(青山五平家文書 資6)。
 大飯郡上下村では小高持が元禄末年頃に従来の面割を高割に変えるよう要求したが、大高持が反対して決着がつかず、二年間割付ができなくて、取り替えた人が迷惑した。宝永二年(一七〇五)になって庄屋が高に三分の一、面に三分の二とする案を出し、せめて高半面半にと求める小百姓を何とか説得したが、大百姓の意見が合わないまま庄屋の案に決ったという(荒木新輔家文書 資9)。上下村の小高持の要求の理由は「先年とハ違、只今ハ高ニ大分高下有之候間」ということであったが、総じて、小高持にとっては家割・面割・亭主割などの家・人に均等にかかる割付よりも、持高の大小に応じた割付方法が望ましいことであった。
 なお、領主の側で高割の方法を命じた例がある。宝永元年石田陣屋の役人から村入用はすべて高割にするよう申渡しがあった。しかし、丹生郡天王村では先規の通り高半家半等にしてほしいと願って、大百姓・小百姓とも合意のうえならばという条件で認められた(内藤源太郎家文書)。同様に今立郡月ケ瀬村も正徳二年に、幕府代官古郡文右衛門から諸役銀米をすべて高割にするよう申し付けられてその通りにした。しかし、この村では従来、幕府領・私領を問わずに村法によって家割あるいは高半家半であり、また村人を次の三段に分けて割り付けていた。すなわち大高持、大高持の山で柴・萓・草を刈る百姓、そして役米銀を大高持の地親へ納める譜代家持。そこで村中の百姓が相談して郡中割銀だけは高割とし、その他の役米銀は従来通りの割り方とすることに決めた(上島孝治家文書 資6)。
 領主が、訴訟を裁いて村盛を定めた例は、例えば、享和二年(一八〇二)に郡上藩若猪野役所が大野郡上野村に宛てた書下などで知られるが(大野市歴史民俗資料館文書)、右の高割の二例は触として命じたものである。その理由や意図は定かでないが、通常は領主は村法には口出ししなかった。



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