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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
    二 村の行財政
      盛・割
 村入用は、越前では盛(森)ともいい、若狭では割ともいっていた。まずその内容を示そう。元禄十年の幕府領桧曽谷村「郷盛・村入用帳」(津田彦左衛門家文書)は下書帳であるが、三〇項目にわたって、給分のほかに毎回の出張・音物・接待・帳紙・酒などの支出を記載している。それを大きく項目にまとめて示すと表53のごとくであるが、郷盛が約三分の一で、他は村方の入用である。支出のおもなものは、庄屋自身、時には他の者が、年貢の件、村内にある北袋銀山の件、手形切替、悪作の訴えなどでの舟寄代官所行き、代官所や「忠左衛門殿」(組頭か)への盆と正月の礼、また忠左衛門の病気見舞と香奠、金山見立役人などの接待に、それぞれ銀一匁から四匁程度を支出している。ただその年の後半に「御立見礼」として銀六〇匁を一度に出しているのが目立つ。ほかに「立見」の礼に舟寄と忠左衛門方へ礼に行っているので、悪作ないし銀山の件で役人に渡したものであろうか。

表53 元禄10年(1697)檜曽谷村の入用

表53 元禄10年(1697)檜曽谷村の入用
        注1 項目は作成者が分類した.
        注2 「郷盛・村入用帳」(津田彦左衛門家文書)により作成.

 給分については、実は前年十二月に「村極証文」を作って庄屋給五俵、帳紙代銀二〇匁、舟寄行き一泊銀一匁五分、歩き給米五俵と麦五斗などを定めていたのであるが(津田彦左衛門家文書 資7)、入用帳には庄屋給が記されておらず、村極にない長百姓与内銀が記されている。また舟寄行きの代銀は一匁で済ましたり三匁、四匁の時もある。節約しての日帰りや二、三泊であろうか。なお、音物・接待・酒代・書賃・廻状雇いを合わせると銀一〇〇匁近くになり、行給(歩き給)と比べて考えると、庄屋給米五俵では庄屋の持出しになったように思われる。
 次に表54は吉田郡志比境村の正徳元年(一七一一)「村諸遣入用牒」(清水征信家文書 資4)の内容である。この村は九頭竜川扇頂部にあり当時は幕府領であった。表中の郡中大割は石田代官所関係の出費で、陣屋や牢屋の営繕費、牢守給・水主扶持・諸書類代・江戸飛脚賃、役人の村方出張の人馬代などである。つまり村々は年貢・小物成のほかに領主の役所の諸経費・人足までも年貢以外で負担していたのである。これと米一俵弱に当たる大庄屋給を合わせて全体の三割弱である。次いで庄屋給米三石六斗八升は米八俵分(四斗六升入)に当たるが、全体の六割強に及ぶ多さである。これは注記によって、庄屋が公用で出張するさいの飯代・宿賃や筆墨紙代が含まれていることがわかる。したがってそのほかに書き出されたのは、年貢金や書類を石田役所へ届ける経費だけである。この場合の庄屋給は村の諸経費の相当部分を庄屋の裁量に任せる、いわば請負的性格の強いものであったと思われる。

表54 正徳元年(1711)志比境村の入用

表54 正徳元年(1711)志比境村の入用
                    注) 「村諸遣入用牒」(清水征信家文書)によ
                       り作成



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