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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
    二 村の行財政
      庄屋の選出
 庄屋の選び方には様々な方法があった。まず、一人の有力百姓が代々世襲する場合があった。ただ一般には跡継ぎの問題や経済的力量・社会的信用を近世を通じて持ち続けることは容易でないことであった。史料上で知りうるのは、むしろ変更のあった場合が多いが、通観して、庄屋を選ぶ者は惣百姓の場合と一部の有力百姓(頭百姓・年寄百姓)の場合とがあり、選ばれる資格も百姓(高持)全員の場合、特定の有力百姓に限る場合があった。選び方も寄合で相談して決める、鬮引・入札などの方法があった。任期も、定めない場合、一年交替、数年交替など一様ではなかった。また役替りの時期も正月・八月が多いが、他の月の場合もある。ただ、こうした庄屋選出方法を文書に定めるのは総じて何か要求・出入が背景にあることが多かったようである。以下、いくつかの事例をあげてその多様性を示そう。
 大野藩領の丹生郡大樟浦では安永八年(一七七九)まで一人の百姓が庄屋役を長く続けてきたが、何らかの理由で退役し、この時から五年交替制になった(木下伝右衛門家文書 資5)。選出方法などは記されていない。
写真83 大樟浦庄屋役交替の定書(首部)

写真83 大樟浦庄屋役交替の定書(首部)

 元禄十一年(一六九八)、幕府領の坂井郡竹松村では庄屋が江戸へ行ってしまったので、村方から長百姓たちで一か年替りに鬮取で勤めるよう領主へ願い、領主は三人の者を指定し、鬮引させて決まった(小島武郎家文書)。
 貞享三年(一六八六)、幕府領の今立郡水海村では庄屋が決まらず、扱人を頼んで長百姓六人が鬮取で八月替りで一年回りに勤めることとなり、六年間分の庄屋を決めている(鵜甘神社原神主家文書)。
 大野郡桧曽谷村では享保十八年に越石方(入作百姓)と本村の者とが別の人物を庄屋に推して出入となり、本保役所で詮議を受けて扱人が入り、むこう三年間の庄屋役を決めて済口証文を作った。しかし翌十九年の庄屋請証文によると、前年の済口証文の予定と違う者が百姓寄合での鬮取で選ばれたことがわかる。前年の出入は一般の百姓から浮き上がった動きでもあったのだろうか(津田彦左衛門家文書)。
 享保十五年、福井藩領の丹生郡二階堂村では七人の者が庄屋役を「村へ相渡し候様ニ」とその時の庄屋へ要求し、了承を得た。現庄屋に不満があったわけではなく、他のおとな百姓に反対意見もあったが、庄屋給の米五俵が、身過ぎの助成になろうとの思いもあって、七人で回り持ちにすることにしたのである。なお、この時作成した一札の末尾に三人のおとな百姓が「庄屋役望無御座候」と署判しており、この動きに同調しなかったことがわかる(小泉教太郎家文書 資6)。
 最後に近世後期の文政十二年(一八二九)の例であるが、町場的な今立郡粟田部村では、中百姓と呼ばれる頭分の者と二一町の町代とが一緒に庄屋を入札して一番から七番までを選び、選ばれた七人が鬮取して庄屋二人・長百姓五人を決めることになっていた。



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