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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
    二 村の行財政
      五人組制度の成立
 土地と年貢の把握策であった検地と庄屋の設置に次いで、近世領主が行った主要な政策は、戸口の把握としてのキリシタン改と五人組制度であった。キリシタン改は第二章第三節および第五章第一節で述べるが、それと五人組制度とは密接に結びついていた。
 寛永十二年九月、江戸在府中の小浜藩主酒井忠勝は国元の家老宛に覚書を送り、その第一条に「村々五人組を申付、堅連判之手形を可申付候事」、第二条に「きりしたんの宗旨ニ而無之証拠ニ者、何も頼候寺かた可有之候間、寺之坊主ニ堅手形を仕らせ可申候事」と、双方を同時に指示した(「酒井忠勝書下」)。そして、その十一月に大比田浦「指上ケ申五人組之事」(中山正彌家文書 資8)が提出されている。その内容は、(1)徒党禁止、(2)キリシタンの届出、(3)不審者への宿貸禁止、(4)来村の手負者・徒者の届出、(5)他国奉公禁止、(6)鳥猟禁止、(7)道橋普請、(8)博奕の禁止、(9)村外他出時の届出、(10)生業不明者の届出、(11)徒者の五人組はずしの一一か条を守り、違反すれば連座制を受けるというもので、最後に九七人が五人組ごとに連判している。
 福井藩の五人組は小浜藩より早く、寛永九年三月の「今泉浦五人与之覚」(西野次郎兵衛家文書 資6)が知られる。内容はまず五六人を五人組ごとに記したあと、一四か条を記している。そのうち四か条は伝馬の通行に関するもの、三か条は代官・手代の非法・不正の届出に関するもので、他は徒者の届出、未進年貢分の請負、欠落者の還住請負、他国奉公禁止、力の強い者の届出、不審者への宿貸禁止、御用以外の福井城下行き禁止で、末尾文言に違反者は庄屋へ届けるとしている。
 なお、福井藩は寛永七年八月五日付で「てうす門徒」(キリシタン)の宗門改のため家中の諸士、百姓から手形を提出させているが、百姓の手形の書式には、「若隠置候者十人組之者共御成敗可被仰付候」という文言があり、また同日付の他国奉公・稼禁止の請書の書式にも、その者を、「急度呼帰可申候、若遅々仕候者十人組之者曲事ニ可被仰付候」(「家譜」)とあって、当時は村方に十人組制度があったことがわかる。この十人組は一般に豊臣秀吉時代に定められていたというから、越前でもその頃からあったものであろうが、ただ村方史料のなかには見いだせない。ともかく、右のことから、福井藩の五人組制度は寛永七年から九年の間に定められたと推定することができる。
写真82 御仕置五人組帳

写真82 御仕置五人組帳

こうして五人組制度によって、検地帳に登録されない無高の家が、また宗門改によって家族の一人一人までが把握された。そして五人組帳前書は、若越では数か条程度の特定された内容のものから数十条、一〇〇か条をこえる全般的なものまで多種多様であるが、こうした多様な制規を請けさせることで、五人組制度は村方統制に有効に機能していたのである。さらには近世後期には村極に相当するものを五人組として連判している例もみられ、この制度が生産・生活の共同体にも持ち込まれて生きていたことがわかる。
 五人組頭については、天保期(一八三〇〜四四)の福井藩の書札礼に、「村中頭立候者壱人ニ小前四人ツゝ為組合可申事」(毛利長仁家文書 資3)とあり、また、例えば第三項で述べる天明七年(一七八七)の鯖江藩領今立郡東俣村の五人組帳では、持高一〇石以上の者が組頭になって小高持と組み合っている(飯田廣助家文書 資6)。したがって五人組頭は一般に村の有力農民であり、五人組は家居の近隣で組み合ったものではないと考えられる。なお、この村では水呑と譜代家持は五人組を構成する家ではなかったが、普通には水呑も一個の家として五人組に組み合っていた。



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