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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
    二 村の行財政
      惣百姓の村
 こうした近世初頭の年寄百姓による専断的な村政に対する一般百姓の抵抗という村内対立を経て、一般百姓が次第に村政への参加度を強めていくものとみられるが、村方の史料群を観察して気付く一つは、十七世紀半ばにもなると村方の取決めに惣百姓全員が連判する文書形式が多くなることであり、いま一つは百姓間、村相互間の取決めに庄屋・長百姓(組頭)の行政上の村役人だけが連署し、時には村の百姓の取決め文書の宛所にもなることである。
 もっとも、惣百姓連署状は中世にもみられるもので明確な画期を区切れないが、寛永期からみられる五人組連判請書などはまったく近世的性格のものである。また年貢割付状にも「庄屋・小百姓寄合無高下割」るよう命じられて、百姓身分の者は村の惣寄合に参加するようになる。ただし、持高の大小などによる村内の上下の階層差は近世を通じて強くあった。近世の村を一言で「惣百姓の村」というが、それは階層差を前提にしてのことで百姓個人個人が無限定に平等であったのではない。その限りで、惣百姓の合意のうえで庄屋が村の全般的な行財政をつかさどる近世の村が出来上がるのである。
 なお、公儀または庄屋への遵奉を村として取り決める動きもみられた。例えば今立郡岩本村で寛永十一年に未進について村の寄合があった時、ありき(歩き)が二回触廻る間に出席する、違反すれば過料銀を出す旨の連署状を庄屋へ提出している(大滝神社文書中の川崎家文書 資6)。慶安二年に南条郡今泉浦が各自の持山をいったん惣中へ出し、それを家ごとに等分に分け取って連判証文を作った時、その末尾文言を、右の条々に背けば「御公儀様并地下として急度曲事に可被仰付候」(西野次郎兵衛家文書 資6)と結んでいる。また慶安三年、今立郡水海村で五項目の村法度を惣百姓連印で決めた中に、第四項に年貢米を引き明けないこと、第五項に「御公儀事、夫役、万庄や衆又ありき之指図少そむき申間敷候事」(鵜甘神社原神主家文書 資6)とある。これらは公儀・庄屋遵奉文言の早い例であるが、のちには村極の箇条書の第一項に公儀文言が書かれるようになる。



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