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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
    二 村の行財政
      惣の解体と残映
 ただ、村における惣的結合は解体に向っていたと思われる。それを象徴的に示すと思われる例を示すと、慶長三年、南条郡今泉浦の惣地下が舟を抵当にして借りた金が返せないので、舟の代りに屋敷二か所を貸主に売る旨の一九人の連署状を出したが、その屋敷の一つは「惣屋敷」であった(浜野源三郎家文書 資6)。また慶長十七年に遠敷郡本保村で「惣山」を惣百姓で平等に割り取ることに決めて二六人が連署している。この村では何年か前から惣の肝煎分である者と四人の脇百姓とが荒の新開分の所有権をめぐって争っていた(清水三郎右衛門家文書 資9)。おそらくそうした事情もからんで、他の一般例より早期に惣山の山割が行われたのであろうが、右の例では個々の百姓名が文書に現れることと裏腹に惣屋敷や惣山という惣の共有財産の解体が行われたのである。推測すれば、近世初頭には越前・若狭でも惣的結合が弛緩ないし解体する方向にあったと思われる。他方で領主は検地によってまず百姓個人の土地所持権を確定し、そのうえで庄屋という新しい機関を立てて年貢諸役を請け負わせた点で、惣的結合に対立的、その解体に促進的な政策であったと考えられる。
写真81 本保村惣野山割の定書

写真81 本保村惣野山割の定書

 しかし、惣が解体に向っても前述のように惣以来の年寄百姓による村政運営はしばらくは続くのであり、それに対して村内の他の百姓たちの抵抗も起った。右に触れた本保村では、寛永十四年に「小百姓」が庄屋二人を訴えている(清水三郎右衛門家文書 資9)。庄屋の一人は右の新開分を取られたと嘆いていた家であるが、訴えは、村高の二割強を持つ庄屋二人が領主の意向であるとして十三年から高掛りの役を勤めないので小百姓の負担が重くなった、だから庄屋を一人にしてほしい。「名主衆」が水損があって免除された米の大部分を肝煎給分として押し取った、中間奉公に村を去った百姓の持高の配分で良い田畑を抜き取った、小浜・熊川行きの飯米を雑炊さえ食べかねる小百姓から出させた、未進の取立てが厳しい、などであった。これに対して庄屋側がいちいち否定して反論しており、事実関係は定かでないが、領主が酒井氏に代った折に小百姓が不満を訴えたものとみられる。そのなかで、庄屋の給分を肝煎給と呼び、庄屋側には「名主衆」が付いており、庄屋はその代表的地位にあったと読みとれて、惣の残映をみることができる。
 また明暦元年(一六五五)当時福井藩預りであった大野郡不動堂村では、「惣百姓」が庄屋を訴えて、氏神の神田とした村の惣田を押領した、庄屋給米を渡しているのに物書代を割り付けて二重取りした、物書代を支払うかまたは「庄や之儀ハまわりまわり可仕」(砂田弘太家文書 資7)と求めたが聞き入れない、と述べている。事の正否はともかく、庄屋・年寄百姓による専断的な村政が一般の百姓の抵抗を受けている。同様の対立事例は慶長二、三年の敦賀郡江良浦惣中の申状(刀根春次郎家文書 資8)、寛永十年の同郡沓浦刀外字との出入(山本宗右衛門家文書 資8)、寛文四年(一六六四)の三方郡南前川村「かしけ百姓」の村入用についての訴状にみることができ(野々間区有文書 資8)、さらに享保六年(一七二一)遠敷郡矢代浦百姓の庄屋不法の訴えにもみることができる(栗駒清左ヱ門家文書 資9)。



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