| 近世領主の支配下に入った村は、庄屋を通して年貢・諸役を勤め、領主の法規制を受けたが、その庄屋が設置された年代が直接にわかる史料は見つかっていない。そこで、史料上の初見を調べると、次のごとくである。 まず、慶長三年(一五九八)八月十一日付で木村由信が、敦賀の西福寺へ宛てて「其村之しやう屋二郎右衛門」に寺領のうち田一反四畝(分米二石二斗四升)を永代の扶持として渡すよう命じた書状がある(西福寺文書 資8)。木村は検地奉行で、その時に二郎右衛門が才覚をもって馳走した(かけ廻った)ので給田を与えたのである。ただ二郎右衛門は同年六月の検地定書請状の署名に「政所」と肩書しているので、右の「しやう屋」が役人の呼称として定まったものと断言できない。次に慶長四年四月二十一日付で足羽郡飯田(半田)村庄屋・年寄から二上村庄屋・惣百姓宛に、村内に江筋を通すことを認め、かつ江代を取らないと定めた一札があるが(加藤源内家文書 資3)、二上村に保存されてきたこの文書は内容・書体などから真偽について一考を要すると思われる。もし、前者が役名とすれば庄屋は太閤検地のさいに設けられたことになり、後者が真とすれば結城秀康入封以前の設置となる、合わせて考慮すべきである。
 次いで知られるのは「慶長五年」と付箋のある子二月十九日付、福井藩年寄「本(本多)伊豆守・今(今村)掃部助」が坂井郡山岸村等三三か村へ宛てた鎖堤築立方申付状で、文中に「村々之庄屋罷出、入用算用可相究候」(林三郎左衛門家文書)とある。しかし、結城秀康が入国するのは翌年のことであり、この子年は年寄連署の点から慶長十七年に特定できる。
 慶長七年になると十一月四日付坂井郡滝谷村庄屋宛の今村盛次人夫役免許状写(滝谷寺文書 資4)、十一月二十日付の丹生郡大味浦庄屋二名宛の山手銀請取状と十二月晦日付の同浦年貢請取状がある(刀
  康隆家文書 資5)。慶長十年には丹生郡西大井・下河去村の庄屋・百姓宛の新江掘り申付状とその添状がある(西大井区有文書 資5)。これらは、いずれも年貢ないし領主支配に関する内容で、差出人は武士である。また差出人が庄屋である例は、慶長十一年二月三日付で南条郡河内村庄屋・長百姓が同郡大谷浦刀  宛になぎ畑を開く件でしたためた一札がある(向山治郎右ヱ門家文書 資6)。なお、若狭での庄屋の初見は、写であるが元和四年(一六一八)二月に三方郡庄屋・惣百姓が多賀越中守へ宛てて、北前川村が山留して村人一人が負傷したことを訴えた一札である(野々間区有文書)。 |