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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
    一 越前・若狭の村々
      村組
 村と村のあいだで、生産・生活の協同のために地域的なまとまりをもち続ける事例がある。他方、領主は行政上の便宜のため、数か村から二、三〇か村程度をまとめた村組を立て、組頭ないし大庄屋という役人を置いて支配した。小浜藩では大庄屋は置かなかったが、寛永五年(一六二八)に郷組という村の組合を作った(清水三郎右衛門家文書 資9)。領主は在地の自主的な村組にも一定程度依拠しており、この双方は重なることがあった。
 例えば、大野藩領の足羽郡芦見谷七か村は、一つの大庄屋組になっていたが、万治二年(一六五九)に相手の頭に鎌で傷をつけた喧嘩に「谷中」の庄屋・組頭・おとな百姓が扱いに入って和談にしている。庄屋は行政上の役人、組頭・おとな百姓は村の長老たちである。また天和三年(一六八三)には年貢米・小役の皆済や代官から申し付けられた米の搬送を「一谷之内」として請け合っている(松浦平六家文書 資7)。同郡味見谷では、寛政期以降の「谷盛割」の定を記録した「味見谷拾ケ村記」(内倉甚右衛門家文書 資7)によって、一〇か村が寄り合って共通の盛割をしていることがわかり、ここでは村よりも谷が主要な単位のごとくにみえる。
写真79 芦見谷

写真79 芦見谷

 大野郡穴馬郷二一か村は上組九村と下組一二村に分かれていたが、諸割合は両組共通のものと組ごとのものとがあった。享保十三年に谷中が困窮に陥り、領主からも倹約令が出たので「上下郷中寄合」をして、着類・帯・笠・頭巾・櫛・足袋など諸事簡略にすると決めたことがわかる(平野治右衛門家文書 資7)。幕末の嘉永三年(一八五〇)にも下組村々が倹約について、神事・仏事、また盆・年頭行事の簡略化、着類・髪飾等の質素化、人足・雇人には雑飯を給するなどのことを「下組村々会所」として定めている(古世賀男家文書 資7)。おそらく会所の建物もあったのであろう。
 なお、用水・入会山・漁場などの共同用益のために村々が組み合うこと、また利害をともにする件について一時的に協同しあうことは、いつでもどこでもみられたが、これについては後にその折々に触れることにする。



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